●『あの家に暮らす四人の女』をNetflixで。前からちょっと気になっていたのだが、今まで観る余裕がなかった。宮本信子、中谷美紀、永作博美、吉岡里帆という四人の女性が都内の洋館で暮らしているという話。肩の力を抜いて観るのにちょうど良い感じだった。
永作博美が、かつての不倫相手の誘惑(に負けそうになるところ)を自分を奮い立たせて全力で抗うところとか、ストーカー化した元カレへの未練を捨てきれない吉岡里帆に対して、永作博美と中谷美紀が協力して、断乎としてきっぱりと別れさせようとする(永作博美は、男を騙して住所を聞き出して警察に届けるというダメ押しまでする)、というところが今日的だと思った。一昔前のドラマだったら、「情の揺れ動き」あるいは「人の業」のようなものを肯定的にドラマ化する傾向(要するに、関係をずるずるとひきずる傾向)にあったと思うが(演歌的?)、「それは間違いだという答えは出ているので、あとは、どうやって惰性に負けずに断乎とした拒否を---女たちで協力し合って---貫けるかが問題だ」という風になっている。ただ、ドラマの方向が今日的なのに、ナレーションが妙に昭和のおじさん臭がして(ナレーターが、実は亡き父だったということまで含めて)、そこはアンバランスではないかと思った。
●中谷美紀の出ている作品を観るとき、いつも「顔の表現性」ということを考える。好き/嫌いとか、美/醜とかいう判断を一旦停止した目で、それ(顔)を見ることを自然に促すような強い表現性の力が、中谷美紀の顔の造形と演技のなかにあるように思う。中谷美紀の顔とその表情の変化は、いつも圧倒的に面白い。顔の表現性と言うときに想起しているのは、たとえばドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』であり、ルネ・ファルコネッティである(つまり、顔の表現性は映画によって発明された)。作品としての良し悪しとはほとんど関係なく、画面に映る中谷美紀の顔はいつも『裁かるゝジャンヌ』のルネ・ファルコネッティのような表現性がある。豊かで多様な表現性の力の方が、好き/嫌いや美/醜という判断よりも圧倒的に強く働くので、(好ましい、とか、美しい、ではなく)あくまで「面白い(あるいは、充実している)」となる。