●アマゾンプライムで『ずっと独身でいるつもり?』(ふくだももこ)を観た。「文學界」で「新人小説月評」をやっていた時に読んだ「君か、それ以下」という小説がとても良くて、そこで、それを書いた作者のふくだももこという人が映画監督でもあることを知った。そして最近、ふくだももこが監督した映画が何本かアマゾンプライムにあることを知り、一番新しい作品を観た。
結論から言えば、これはぼくが求めているような「作品」ではなかった。ここで目指されているのはあくまで「共感」と「啓蒙」であり、勿論そのことはそれ自体でたいへんに意味のあることだ。この作品を観て、共感して力づけられる人もいるだろうし、気づきを得て蒙を啓かれる人もいるだろう。
「共感」と「啓蒙」の重要性について異議を申し立てるつもりはない。ただ、ぼくにとって「作品」とは、そこから先にあるもののことだ。つまり、「この作品」に独自の出来事、「この作品」という場においてこそ起った化学変化、「この作品」ならではの深掘りや独自の視点。だがそれは、あくまでぼくの側の事情(希求)であって、この作品ははじめからそこを目指していない。だからたんに、これはぼくにとっての「作品」ではなかったとだけ言えばいいのかもしれない。
なのに、余計なお世話のようなことを言ってしまうのは、「君か、それ以下」という小説が、共感や啓蒙よりも先にあるものを摑んでいる「作品」だと思えたからだ。だから映画にもそれを期待してしまったということなのだ(そもそも、だからこの映画を観ようと思った)。
いや、違うか。たとえ、この作品の目的が「共感」と「啓蒙」であり、ぼくが求めるような「作品」でははじめからないのだとしても、それでもなお、この脚本では、個々の人物のあり方や要素が紋切り型で工夫がないのではないかということは言ってもいいのかもしれない。個々のあるあるネタにとても重要なリアリティが含まれていることは確かなのだろうし、演出のレベルでは、あるあるネタをとても丁寧に表現しているとも思うけど。
(三人の女性が三人とも、泣き叫んで走り出す---自転車、素足、自動車の違いはあるが---というクライマックスの作り方はどうなのか、とか。)
個々の人物たちが、ある傾向のあるあるネタを集めた典型にしか見えないのは、人と人とがかかわることで人が変化するという過程がほとんど描かれてないので、人が、ただのネタ(属性)の集合にみえるという理由もあるのではないか。市川実和子と徳永えりとがかかわることで、徳永えり夫婦のあり方が少しだけ変わった(この映画で男女関係が---ほんの僅かであっても---良い方向に進んだほとんど唯一の例だろう)という以外は、それぞれの人が、それぞれ勝手に行き詰まった(末に叫んで走り出す)だけにみえる。田中みな実の決断には母の影響があるかもしれないし、田中みな実の行動によって、市川実和子が引っ越しを決意するということもあるのだが、最後の方にちょこちょこっと影響の連鎖があるだけで、ほとんどの時間が、ああいうパターンもあれば、こういうパターンもあるよね、というあるあるパターンの羅列に終始しているようにみえた。
(特に、松村沙友理のキャラなど記号的イメージでしかないようにみえる。これは松村沙友理が悪いのではなく脚本の問題だと思うのだが。)
あー、田舎ってそうだよね、おっさんてそうだよね、そういう男いるよね、そこになぜ気づかないのかねー、それってあるあるだよね、あまりに分かりみが深すぎて観ていられないわ…。そういうところ(要素)を丁寧に拾っているのは分かるのだが、それらが組み合わさっても立体的になってこないのはなぜなのだろうか。
たとえば、田中みな実がつきあっている男がヤバい奴だというのは、誰にとってもミエミエなのではないか。そしてそれを田中みな実が分かっていないはずがないと思ってしまう(盲目的になってしまうほど好意が強いようにもみえない)。見栄えがいいしお金もありそうなので、適当につき合っている分にはいいという判断は分からなくもないが、結婚なんかしたら最悪の夫になるのが分かりきっている典型的な男性としか思えない(あまりに典型的なので、この男性のキャラにもう一ひねりくらい必要ではないかと思ってしまう、悪い人はもっと狡猾に悪いのではないか)。たとえ田中みな実が将来への不安から「結婚したい」と強く欲望していたとしても、この男ではないという判断に、普通はなるのではないかと感じてしまう。
なぜ、仕事もあるしお金にも困っていない田中みな実が、ずるずるとこの男と婚約し、そして、キレてもいいポイントがいくつもあるのに、いつまでもキレることなくガマンしつづけているのか、観ていて不自然に感じられる。田中みな実という人に何度も「いたたまれない場面」に立ち会わせたいという悪意が、脚本家や監督にあるかのようですらある。というか、いつキレてもおかしくないのに、ここでもまだキレない、次もまだキレない…、という「キレ」の遅延が一種のサスペンスのようなものとして、この映画の物語の持続を支える構造の一つになってしまっているのだけど(キレるのが遅れれば遅れる程がんじからめになっていく)、その作品構造と田中みな実のキャラが乖離しているので物語に説得力が生まれない。というか、田中みな実がどういう人なのか最後までよく分からない。
(田中みな実の両親に男---稲葉友---が会いに行く場面、そして逆に、稲葉友の両親に田中みな実が会う場面。残念なことに、確かにこれが今の日本のリアルなのかもしれないが、しかし一方で、今まで、映画やドラマで、ほとんど同じような場面を一体何回見せられただろうか、とも思ってしまう。残念な日本のリアルを見せるにしても、もっと他にやりようや切り口はなかったのか、と思ってしまう。)
常識的に考えると、この映画の登場人物で一番面白そうなのか(一番、面白いお話が引き出せそうなのは)徳永えりではないかと思うのだが、その部分はあまり深く掘り下げられない。徳永えりを中心として、最初は彼女と対立している感じの市川実和子が絡んできて、二人の関係が徐々に変化していく、という「化学変化する」ところをもっと発展させていくと面白くなりそうだと思うのだが。それと、田中みな実と市川実和子がマンションで隣り合って住んでいるという設定が、最後までほとんど生かされていないのも、どうかと思った。
(クレジットをみると、原作モノであり、脚本も監督とは別の人なので、監督としては、雇われ仕事のような位置づけなのかもしれない。別の作品はまた違うのかもしれない。)