●2017年に行われた『三月の5日間 リクリエーション 横浜公演』の動画がYouTubeにあったので、なんとなく観てみたら、引き込まれてそのまま最後まで観てしまった。
Toshiki Okada "Five Days in March Re-creation in Yokohama"【EN/FR/DE/PT/簡中/繁中/RU】
https://www.youtube.com/watch?v=wcpdFTbe18M
頭のところは、ちょっとイマイチであるように感じられ、その後、ミッフィーちゃんが出てくるあたりも、どことなく松村翔子をなぞっているみたいにも思えてしまったのだけど、その先、ミッフィーちゃんの一人語りの場面がすばらしく、そこからぐっと引き込まれて、かつて観た「三月の五日間」との比較という感覚が完全に消えて、今観ているこの「三月の五日間」だけに集中して、そのまま最後まで緩むことなくすばらしいと思った。
2004年の「三月の五日間」は、2004年当時に若者だった俳優たちの身体によって、2003年の若者の---同時代の---物語が演じられるのだが、2017年の「三月の五日間」は、2017年に若者である俳優の身体によって、2003年の若者たちの物語が演じられる。そして、2004年の若者の身体と、2017年の若者の身体は、あきらかに違う。2017年の俳優たちは、自分たちが使っているものとはやや異なる言語によって、自分たちが生きている時代とはやや異なる時代の若者を演じる。その微妙な齟齬みたいなものが(齟齬から浮かび上がってくる時間の亡霊のような感じ)、とても面白く感じられた。頭の部分をイマイチだと感じたのは、ぼくの頭のなかで、そのズレを感じ取る部分が調整されていなかったからかもしれない。
(たとえば、イラク戦争がはじまった夜からラブホテルに四泊五日連泊する男が、連泊が終わる頃には戦争も終わっているのではないかという楽観的な見通しを立て、それを実感するために連泊中はテレビなど外からの情報を遮断すると語るのだけど、スマホが普及した2017年では、ラブホテルに連泊するくらいでは外からの情報を遮断することは出来ないだろう。五日間のうちに一回もスマホをチェックしないというのは困難だ。つまり、2017年の若者には「三月の五日間」の物語を経験することが不可能に近くなっており、だからこの物語は「彼女ら、彼ら」の物語ではなく、過去のものだ。)
おそらく、2004年の時とは俳優の男女比が逆になっていて(男5、女2から、女5、男2へ)、男性の話を男性が語るところからはじまる2004年のバージョンと異なり、女性の俳優が男性の話をする(男性として話しをする)ところから始まる。つまり、のっけから「語り」と「語る者(俳優)」が分離していることが明確に示される。俳優1が役Aを演じ、俳優2が役Bを演じているのかと思っていたら、いつのまにか「語る主体」が移動していた(2004年)、という感じではなく、はじめから切断が明らかであり、「語られている言葉」が「語っている身体」に由来しないこと(語られているのが他者の物語であること)が明示されている。
そして、この上演が面白いだけでなく、「三月の五日間」という戯曲がとても優れていて面白く、マスターピースというべきものなのだなあと、改めて思った。