チェルフィッチュの『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を観に行った。でも、ラフォーレとスパイラルを勘違いしていて、もうちょっとで青山の方へ行ってしまうところだった。出がけに確認して良かった。
●まず、ちょっと今までとちがうと思ったのは、俳優が役をあらわす衣装を着ていること。今まで観たチェルフィッチュは、俳優が互いに役を交換したり、ナレーターだったのが演じ手になったりしていたので、俳優は役をあらわすような「衣装」を着てなかった。『フリータイム』は夏の話だけど俳優は夏服じゃない、とか、そういう分離感が常にあった。『わたしたちは無傷な別人であるのか ? 』では、俳優たちを色分け(キャラ分け)するような衣装をそれぞれ着ていたけど、それは役にあわせたものとしてはズレていた(作中人物をストレートに表現するものではなかった)。今回のは、俳優が、派遣労働者やサラリーマンが普通に職場で着るような(ごく普通の意味での)衣装を着ていたし、役を交換するということも起こらなかった。つまり、俳優が普通に役を演じる風(作中人物自身の言葉で語る風)になっていて、今までのチェルフィッチュとは言葉-語りの位置が違っていた。普通に役を演じる風の俳優が、いわゆるチェルフィッチュ的な変な動きをする、ということの違和感を最初は感じた。こうなると、この動きに必然性がなくなっちゃうんじゃないだろうか、というような。というか、言葉と身体(動き)との関係がちがってきちゃうんじゃないだろうか、俳優が、言葉に対して取る距離と、身体-動きに対して取る距離とが食い違ってしまうのではないか、と。
もう一つの違和感は、こんなに音楽とシンクロしちゃっていいんだろうか、というものだった。俳優が動き出す/動き終わるタイミングが、音楽がはじまる/終わるタイミングとぴったり合うというのはいいとして、俳優の動きが音楽の流れにあまりに合いすぎていて、時々「アテぶり」みたいに見えてしまうところがあって、こっちの方向にどんどん進んでゆくとしたら、(技術的に高度だと言うだけで)あんまり面白くならないんじゃないかという感じ。とはいえ、俳優ひとりひとりの特徴やキャラクター、というより、俳優そのものが持つ魅力というべきかもしれないが、それがより全面に出てる感じはとても面白いと思った(特に「もつ鍋」の人とか)。
以上が、第一部の「ホットペッパー」が終わった時点での感想で、ちょっと微妙で、これからどっちに進んでゆくんだろうか、期待と不安が半々、みたいな感じだった。つまり、言葉と身体と音楽との関係が、この後、すごくつまんない方向に流れちゃうんじゃないかという危惧と、いや、チェルフィッチュがそんな安易な方向に流れるはずがない、という気持ちが半々くらいにあった(あと、影の使い方から『少女革命ウテナ』を思い出した)。
そのような危惧は、第二部の「クーラー」があまりに素晴らしかったことで吹き飛んだ。二人の俳優の身体の動き、それぞれが発する言葉、そして音楽が、基本的にそれぞれ孤立して進行しながらも、時にシンクロし、時に交錯し、時にすれ違う様が、ものすごい複雑な線の絡みをつくっていた。二人の動きと音楽とが、意味なく唐突に同期することもあれば、バラバラに進行していた二人の動きが、男がポケットからタバコ(だと思う)を落とすことに、女が一瞬反応する、という形でふいに交錯し(またすぐ分離し)たり、あるいは、普通にバレエみたいに二人が絡んだりもする、という風に、独立した線同士の「絡み方」も多様で、いちいち驚かされるというか、ひとつひとつが面白い。個々の俳優をみても、動きの組み立てや流れと言葉の流れとが、絡んでいるけどジャストフィットしていない(距離が近づいたり離れたりする)、その関係の移りゆきが緊密で、「ホットペッパー」では、それってたんに「へんな動き」だから面白いっぽく見えるだけなんじゃないの、みたいな違和感もちょっとあったのだけど、それはまったくなくなってしまった。ここでは、チェルフィッチュのある傾向が、特化して、というか純粋化されて、先鋭的に突き詰められた、という感じがした(あと、一つの主題を徹底してしつこく展開することから、全盛期のB&Bの漫才をちょっと思い出した)。
第三部「お別れの挨拶」は、「クーラー」とはまた別の、チェルフィッチュのある種の傾向が徹底されているように思った。例えば、『三月の5日間』でのミッフィーちゃんの一人語りの場面が、より拡大されて、展開されているというような感じ。これを見ると、岡田利規は、「クーラー」のような側面もありつつ、「よい話」としての物語を語りたいという気持ちも一方でとても強いのだろうと思うのだった。勿論ここでも、俳優の動きや言葉の展開は単純に語られる内容に奉仕するものではないけど、それでも、「ホットペッパー」や「クーラー」よりは大きく、語られる内容の方に比重が置かれているように感じた(そして、岡田利規において物語的な側面は主に女性によって語られ、演じられる傾向があると思う)。
ぼくは、『エンジョイ・アワー・フリータイム』に収録されている戯曲を読んだ時に、この「お別れの挨拶」にとても感動してしまったのだが、パフォーマンスを見たら泣きそうになってしまった。というか、ちょっと泣いてしまった。観客の多くは笑っていたけど、最後の「総務の石橋さん(でよかったんだっけ?)」への感謝を述べるところなど、もう、わー、という感じになった。コルトレーンが、こういう場面に、合うでも合わないでもなく、しかし、これしかないという感じで響いていた。