●明日、チェルフィッチュを観に行く予定なので、そのための肩慣らしという意味もあって『フリータイム』のDVDを観た。チェルフィッチュの作品は様々な側面があり、そこから「語り」という側面をみるだけでは充分ではないのだが、とりあえず「語り」という点でみると、こんなに複雑な(言い換えればめちやくちゃな)ことをやっているにもかかわらず、おそらく観客は誰一人、ここで語られている「内容」を間違えたり、理解できなかったりすることはないと思われ、そのことに驚く。なんで、こんなに難しいことをやっているのに、こんなに分かり易いのか。今、誰が誰について語っているのか、あるいは、誰が誰について語っているのを、誰が演じているのか、が、とても複雑に交錯するのにもかかわらず、「どういうことが語られているのか」は、誰の目にも明らかなほど分かり易い。そこに混乱は起こらない。ここで行われている、互いの頭のなかを反射し合うような構造、視点の移動、複雑な人称の操作等々を、きちんと分析しようとするとおそろしくめんどくさいことになると思うのだが、でも、「どういう話なの」ということは、いちいちそんなことをしなくても、誰でもが、正確に把握出来るようになっている。
●ここに、人が言葉を使って語るという時の、非常に重要な何かが捉えられているように、ぼくには思われる。つまり、普通に人が喋っている言葉が、既にこのくらい複雑だということなのだと思う。複雑と言うより、視点や人称が整っていない。もっと乱れている。それでも、人はそういう乱れた言葉を普通に理解するし、普通に話す。通常の小説のように、視点や人称がきちんと整理されているような言葉の方が、実は異常なのだ。つまり、人は、小説のように、きちんと整った形式では考えないし、感じないし、発想しない。
●にもかかわらず、「書こう」とすると、自然にそれらを整理して、言葉の規則に従ったものとして均してしまう。そしてその時、重要な何かが消えてしまう。例えば、夢について書こうとすると、夢の記憶や感触が、言葉の規則や形式に従わされ、それによってもともとあった記憶さえも変形させられてしまう。言い間違え、視点や代名詞の混乱、文法的な間違い、センテンスが閉じないうちに別のところに焦点が移動してしまうこと、等々。それらは、それ自体として(つまり「技法」として)意味があるのではなく、そのような歪みを生じさせてしまう何か、文を歪ませるその力、その力を生む何か、こそが表現されようとしている。それは勿論、その言葉を発している人にも意識されていない何かだ。
(例えばドゥルーズとかが、創造的に吃るとか言うけど、それは「吃ること」そのものが目的なのではなく、「吃らせてしまう(吃らざるを得ない)力」を抑圧しないということこそが、だから「結果として」吃ってしまうということこそが重要であるはずで、つまりそれこそが「創造」であって、その順番を間違えて、吃ることを目的化してしまうと、まったく退屈なことになる。)
●視点や人称の不安定さは、言葉がもともと持っているものであり、言葉が言葉として語られた途端、誰がそれを語っているのかということが、半ばどうでもよくなってしまうのではないか。私が、私について語っていようと、彼が、私について語っていようと、彼が、彼女を演じつつ、私について語っていようと、それらはすべて「私」についての話であることはかわらない。その時、その話を語る「私」は、もしかしたら彼であったかもしれない私であり、彼女であったかもしれない私であり、そして、誰でもない誰かであってもかまわない私であるかもしれない。その時、私は私から半ば抜け出る。しかし同時に、それが私についての話である以上、まったく他人事というわけにはいかない。私の位置はそこにあるのだから。言葉は、ここで完全なメタレベルではない、半メタのような視点、自分を俯瞰的に見下ろすのではなく、後頭部のちょっと後ろくらいの、ちょっい斜め上くらいの視点を構成するのではないか。この、私に対する「私」のちょっとした距離こそが、「言葉」の現実に対する介入を可能にするのではないか。他人ごとであれば、言葉はたんに状況の記述でしかないし、私が私とぴったり重なっていれば、言葉に意味はない。しかし、ちょい斜め上を生きる「私」(あるいは、私とちょい斜め上の「私」との関係)にとって、言葉の構成(モンタージュ)は、少なくとも現実の構成の一部となるだろう。
ここで思い出すのが『20世紀ノスタルジア』という映画で、この映画の広末涼子は、撮影者であり、撮影対象であり、編集する人でもあった。彼女はハンディ型のビデオカメラで、風景を撮り、男の子を撮り、自分を撮り、自分と男の子との関係を撮る(撮り合う)。もし彼女が、自分や、自分と男の子との関係を撮っていなかったら、映像を編集することは、たんに映像をつくるだけにしかならなかっただろう。もし彼女が、自分だけしか撮らなかったら、それはナルシスティックな自己像の確認にしかならなかっただろう。しかし彼女は、自分を取り巻く環境と共に、自分自身にカメラを向ける。それによって、(自分がその一部として含まれたものとしての)環境を見ることの出来る、ちょい斜め上の視点が構成される。だからこそ、彼女にとって映像を編集することが現実(彼女を含む環境)を編集することとなるし、男の子との関係を編集する(再構成する)ことになり得る。それを可能にしたのはハンディ型のビデオカメラだが、しかし、言葉はカメラなしでもそのような視点を可能にするのではないか。
『フリータイム』の「語り」を可能にしているのは、このような、半ば非人称化された、ちょい斜め上の視点の不安定な揺れ動きなのではないだろうか。
(言葉の、現実に対する介入については、5月2日の日記で、デニス・ジョンソンの小説について書いた時にも考えたことだった。)
●意識的な表現としての「作品」をつくる場合、無意識を巻き上げ、巻き込むための、無意識に働く力を抑圧しないための、意識的な方法(あるいは姿勢、態度、配慮等々)が必要になる。ここで、作家によって意識的になされた方法や態度や配慮と、それによって巻き上げられ、くみ取られ、把捉された(作家自身にも明確に意識されているわけではない)「表現された何か」とは、分けて考えられなければならない。勿論、前者よりも後者の方が圧倒的に重要なものだ。作品を読むということは、後者を丁寧に探り、そこに触れ、それを感じるということで、前者を理解することではない。
●難しいことをやっているのに分かり易い、というチェルフィッチュの作品には、それによって形式と内容の乖離のようなものが起きているかもしれない。形式的には、高度で高踏的な芸術作品としてありつつ、内容的には、貧しさとともにあるプロレタリア演劇的なリアリズムとしてあり、それは、形式が内容を裏切り、内容が形式を裏切っているとも言える。しかし、それは決して批判されるべきことではなく、逆に、そのことこそが、チェルフィッチュの作品を際立った、他にはない特別なものにしていると思う。実際に、少なくとも現代の日本では、「高踏的な芸術」というものは、貧乏なアーティストと、貧乏な観客によって、ようやく支えられているわけだし。
形式と内容が乖離していると書いたのは間違いで、それは矛盾しながらも繋がっている、と言うべきだろう。チェルフィッチュの面白さは、なんといっても第一にはその語り口(形式)にあると思うのだが、その語り口-形式は内容と切り離されてあるわけではない。それは例えば、チェルフィッチュの作品に、四十代や五十代の俳優が出ることは考えにくいという点からも分かる。やはりそれは、二十代や三十代の俳優の(:現実的な)身体のありようから(ありようによって)出来ていて、そこを切り離すと語り口-形式にも意味がなくなってしまう。つまり作品は必然的な矛盾を生きているのだと思う。