2023/05/31

⚫︎関田育子すごいな。これは圧倒的だった。なんというのか、野田高梧が書いた脚本をパラジャーノフが演出したみたいな時空が成立している。

かながわ短編演劇アワード2023短編演劇コンペティション大賞作品「関田育子『micro wave』」 - YouTube

ぼくは、今までは、関田育子の面白さは、見立てによって立ち上がる時空の自在さの編成にあると思っていたのだが、ここではそれにさらに、「見立てによって立ち上がる空間(フィクションの次元)」と「俳優の身体が舞台上にあることの表現性(現実的に特定の空間に人がいて物があることという次元)」という二つの層の、乖離と重なりの自在さの編成が加わっている感じ。

例えば衣装にしても、ある俳優がその服を着ているということと、その俳優が演じている役とは全く関係がなく、衣装は、俳優の身体や風貌と衣装との関係、また、(舞台空間で並置される)他の俳優の衣装との関係によって決まっているように思うのだが、ただ「まゆちゃん」役の俳優だけが、明らかに(というか、あからさまに)フィクション上の「役」を反映した衣装を着ている。衣装の次元では、「まゆちゃん」役の俳優という場においてのみ現実とフィクションが重なり合っていて、他の俳優は重なっていない。つまり、衣装の「意味」に不均衡がある。

(まゆちゃん役の俳優と、そのおじいちゃん役の俳優は、「役」が固定されていて、他の役を演じることはないのだが、それでも、おじいちゃん役の俳優の衣装は、役に寄せられたものではない。)

ぼくの知っている限りにおいてだが、以前の関田育子では、すべての俳優において、役と衣装とは重なっていなかった。なんとなく、俳優のキャラクターと役とがふわっと重なっていることはあったが、明確に俳優が「役」に寄せている感じはなかった。だがここでは、明らかに「一人だけ」役に寄せている衣装を着ていて、しかもその衣装は、Jホラーの幽霊役の少女みたいな、他の俳優たちとは異質な、視覚的に際立つ衣装を着ている。

これはおそらく、今までにあった「フラットな一様さ」のようなものを捨てているということの一つの現れのように思われる。ぼくの観た限りでの、過去の関田育子では、(個々のキャラクターの違いはもちろんあるにしても)俳優たちの見た目や仕草や抑揚はある程度フラットな調子に抑制・統一されていて、それによって成り立つ俳優の等価性によって「見立ての柔軟性」が確保されていたように思われた。現実のレベルでのフラットな一様性が、フィクションのレベルでの役柄や時空の編成・再-編成の自在さを可能にしていた感じ。

(見た目のフラットさというより、役と衣装との無関係さの距離感が俳優みんな同じくらい、と言ったほうがいいのか。)

しかしこの作品では、現実のレベル(見た目、仕草や声などの強弱、緩急、抑揚)においてフラットさが手放され、俳優の個別性も前よりは強く出ている。それでもなお、見立てによって立ち上がる、(フィクションのレベルでの)役、時間、空間の成り立ちや転換・移り変わりの自在さが少しも失われていないので、舞台の上で起こっていることが、より複雑になり、それによって表現として強くなっているように思われる。

⚫︎ただ、一つ思うのは、これだけ複雑で先鋭的な表現をしている一方で、語られる「お話」は、古典的でとてもシンプルな、普通の「いい話」であるということの不思議さだ。一面では、これだけ先鋭的な表現でも観客がこの世界をすんなり受け入れられるのは、「お話」のレベルでとてもわかりやすく、共感しやすいものであるからで、だからこそ表現として「成功」しているのだ、とも言える。つまりこの選択は正しいのだろう。だがその一方で、お話のレベルでもう一歩、二歩、突っ込んだことをやったら、もっとすごいものになるのではないかという感じもある。