⚫︎「近代絵画」が何をやろうとしてきたのか、を示すための、ぼくなりの一例として書いたのが、下の、マティスの「Pink Nude」(1935年)についての記事だ(5月28日の日記参照)。マティスは「Pink Nude」の制作過程を22枚の写真に撮って残した。そのうち、マティスの回顧展の図録に掲載されている16枚を元に、その、一枚、一枚の推移を見ながら、マティスはなぜ、何を考えて、前の段階から次の段階へと画面を動かし、直していったのか。そして、その過程を通して、一体何を追求していたのか、を、マティスに憑依するようにして考えて書いた。
これは別に「名画の秘密を探る」というような目的で書いたのではなく、別にこの作品に限ったことではなく、そして「近代絵画」に限ったことでもなく、「作品を作る」という過程が、具体的にどういうことなのかについて、自分なりに考えるために書いたものだ。
一枚目の写真の、この最初の段階で、これはこれでとても良い作品だと思う。ただ、一箇所、右腕の部分(右腕の処理)が浮いていて、この絵画空間の中ではやや違和感がある(あるいは、やや曖昧である)ように思う。全体としていい感じなのだが、どうもここだけが気になる。おそらく、最初の状態にある、右腕の処理への違和感が、1枚目の写真の状態の絵を、22枚目の完成の状態にまで動かしていった。
途中の段階の推移を見れば、マティスに初めから完成の状態が見えていて、そこを目指して進んでいたというわけではないことが分かる。最初の状態の、右腕部分の違和感から導かれた試行錯誤が、途中で何度かの破綻の危機を乗り越えて、最後の状態に行き着いた。マティスが最後の状態を「発見する」ことによって、この絵は完成となった。
これは、あらかじめ構想された完成状態へ向けて一歩一歩積み上げられた過程ではないし、かといって、無限にあり得るバリエーションの展開がたまたまどこかで途切れたということでもない。未だ存在しないがあり得ると想定される完成点へ向けた探究であり、試行錯誤の中で新たに「発見」された完成像への到達であるはずだ。
(ただ、自分で書いておいて思うのは、このテキストを図版と照らし合わせながら「文字」で読むのはかなり面倒だ、ということ。前状態と後状態とを二枚並べて、この部分がこう変わっているのは、おそらくこういう理由だ、というような形で、動画で示した方が分かりやすいし、見やすいだろうとは思う。)