●フィクションというもののありようを、その反復回数(複数性)から考えることができるのではないか(思いつきのメモ)。
まず、フィクションと現実の違いとして、フィクションは反復可能であり、現実は反復不可能である、と考える。つまり、フィクションとは再帰的なものだ、と。例えば、昨日、Aさんがした失敗を、面白おかしく、Aさんの身振りを模倣しながら、Bさんが友人たちに話す、というとき、Aさんが昨日した失敗=現実を、Bさんが、今ここで再帰的に再現している。つまりフィクションだが、これは、Aさんの昨日の失敗を、Bさんが今ここの現実の身体を用いて再現している。今ここのBさんは、Bさん自身の唯一の現実のなかで、「昨日Aさんに起こった出来事」をフィクションとして再帰的に立ち上げている。唯一の現実から半歩浮いたところに別の層が生じている。このフィクションは、現実的な友人関係のありようによって、「Aさんのキャラを表現する面白エピソード」でもあり得るし、「BさんによるAさんディス」にもなり得る。これは現実のなかに深く畳み込まれたフィクションだ。
もう少し虚構性を高くすると、同じ戯曲が複数回上演されるということが考えられる。「Aさんの失敗をBさんが語る」ことに比べれば、フレームが少し硬くなり、反復可能性が高くなったと言える。とはいえ、上演の場合、その再現はその都度一回限りでもある。ここで、その戯曲が世界的に古典と言われるようなものなのか、それともマイナーな劇団の定期公演のために書かれたものなのかで、反復可能性の頻度(フレームの硬さ)が違ってくる。また、フィクションとしての反復可能性を、戯曲を単位にみるか、それを演じる俳優を単位にみるかで違ってくる。俳優Cは、現実としての自分自身の唯一の身体を用いて、「この役」を何度も反復して演じる。あるいは、俳優Cは、現実としての唯一の人生のなかで、現実の身体を用いて、様々な異なる役を演じる。後者もまた、現実の唯一性に対する、フィクションの複数性として、反復可能性の一つと考えられる。
ここで、物語としてのフィクションとはやや異なる、ゲームとしてのフィクションを考えてみる。一人の俳優が、その生涯のなかでたくさんの役を演じる。または、一人の作家が、その生涯のなかでたくさんの物語(作品)をつくる。しかし、いかに多忙な俳優や、多作な作家だとしても、一人の棋士が生涯のなかで行う対局数や、一人のプロスポーツ選手が生涯に行う試合数と比べれば、かなり少ないということになるのではないか。
現実は唯一のものであり、その状況は刻々と変化する。一人の人の一生のなかで、過去のある時点とまったく同じ状況に遭遇することはほぼ考えられない。どんなチャンスも、どんなピンチも、その都度まったく異なったものとして現れる。故に、あの時の成功(失敗)が、必然的なものだったのか、偶然だったのかを(本当に正確には)知ることができない。成功した者の「成功」が、その人の実力によるのか、たまたまうまい具合に状況にハマっただけなのかは、本当は判断できない。そもそもそれぞれの人が、それぞれに「異なる状況」にあるので、どんな状況にも等しく適応可能であるような「実力」などあるはずもなく、すべて偶然と言ってもよいと思う。しかし「ゲーム」というのは、意識的に「同じ状況」を何度も何度も反復的に作り出す。できる限り「同じ状況」で競うのでなければ、フェアではないことになる。だから、人生の成功は偶然でしかないとしても、ゲームでの成功は(そのゲームという限定された環境のなかでは)「実力」によるものだと考えられる。人生の実力はあやふや(偶発的)だが、ゲームの実力にはある程度の客観性がある。
(人生=現実では、せいぜい数回しか振れないサイコロが、ゲームであれば数百回は振れる、というような。デュシャンは、芸術=フィクションから、チェス=ゲームへ移行する。)
つまり、一方に現実という偶然に満ちた唯一性があり、他方にゲームという、同じ条件の繰り返しから得られる(ある程度の)客観性(=必然性)があるとすれば、その中間にあるもの、一定の偶然性=有限性(現実性)と、一定の複数性=反復可能性(ゲーム性)の両方をもつものとして、我々が普段「フィクション」と呼んでいるものが位置づけられるのではないだろうか。だから、フィクションはゲームよりも貧しい(フィクションの再帰的フレームは、ゲームのそれよりも緩く、脆弱である)。しかし、その貧しさや脆弱さにこそ、ゲームとは異なる、人にとってのフィクションの意味があるのではないかと思う。
フィクションがゲームと違うのは「同じ条件で戦う」という前提がない、もしくは、とても弱いことだろう。条件の平等ではなく、むしろ、未知の状況から、未知のフィクションが立ち上がることの方が強く期待されている。
(メジャーな映画ならば、その映画は世界全体としてみればとんでもない回数、繰り返し上映されているだろう。ただ、あの人がある映画のことが大好きで何度も繰り返し観るとしても、その回数が、プロの棋士が生涯に行う対局数に並ぶことは考えにくいのではないか。では、同じ映画ではないにしても、年間に数百本も映画を観るシネフィルはどうなのか。シネフィルはもはや、「フィクションを行う人」というよりも、ゲームプレイヤーに近いのかもしれない。なお、ここでは「作り手」と「受け手」とをあえて混同している。フィクションにおいて、この違いは絶対的なものではないと考える。作り手も受け手も「フィクションを行う」という点で同等だ、と。ここでは、人の生の有限性の方を重要視している。)
さらに言えば、一人の棋士が一生に行う対局数など、機械学習するAIならば一瞬で飛び越えてしまうだろう。その意味で、ゲームよりもシミュレーションの方が反復可能性がずっと高く、故に客観性も高くなる。しかしここまでくると、人間のもつ有限性では立ち入ることのできない領域になる。だが、シミュレーションが、いかに膨大な反復可能性をみせると言っても、それが具体的に行われる「計算」に基づく限り、必ず有限数にとどまる。しかし、可能世界という概念を用いれば、可能世界は無限に存在するので、反復可能性としてシミュレーションを超える。
まとめれば、反復可能性の貧しさという観点から、「現実→フィクション→ゲーム→シミュレーション→可能世界」というグラデーションが考えられる。そして、我々が通常フィクションと呼ぶものは、現実と、ゲームやシミュレーションとの間にあるのではないか、と。フィクションは、ゲームやシミュレーションよりも反復可能性が低く、再帰のためのフレームも脆弱であるが、その再帰性、再現性のあやふやさ(条件の平等を求めないこと)にこそ、固有の可能性があるのではないか。