2023/02/22

こまばアゴラ劇場で、Dr. Holiday  Laboratory『脱獄計画(仮)』。18日の日記で、戯曲『脱獄計画(仮)』について、「フィクション内フィクション、フィクション内現実、その外=現実という3つの層」があるが、それらは階層構造をなすのではなく、「互いに互いを包摂し合うと同時に、互いに互いを食い破り合うという関係になっている」と書いた。ここで、互いに包摂し合う三つの層の中に「その外=現実」が含まれている以上、この三つの層の「外」はない(「外」は三層構造にあらかじめ組み込まれている)。しかし、テキストとしてそれを読んでいる場合、それでも「そのような構造」を外から眺めている感じが強い。だが、実際に上演される『脱獄計画(仮)』に立ち会うとき、その作用は「舞台の上」だけで閉じられることはなく、観客席でそれを観ているわれわれにまで広がってくる。

「ヌヴェールを演じるロビン」の役が、俳優・石川朝日、日和下駄、ロビン・マナバットの三者の間で交換されるとき、あるいは、それまでドレフュース-土井を演じていた油井文寧と、ヌヴェール-ロヴィンを演じていたロビン・マナバットが、桑沢を演じる(ここでは「桑沢」というより、なぜか場を仕切る権限を持っているかのように振る舞う男、という感じだが)黒澤多生の指示によって「役」を交換し、その直後に、「ヌヴェール-ロヴィン」となったはずの油井が「今僕(ヌヴェール)をこうして演じている土井さん」と自分を呼び、直前までの自分の役(土井)に引っ張られてしまうとき(この「引っ張られ」も事前に戯曲に書かれているわけだが)、この混乱の中で、観客が足掛かりとして頼りにするのは「現実に存在している俳優の見た目」であるが、しかしそれは「現実(実在)」というよりも、流動化する関係変化を見失わないための「印」のようなものへと後退してみえる。

(劇の始めの方で瀬田役を演じる日和下駄が「演出家」について「感じの悪い年寄り」だったと描写し、その同じセリフが後に「総督」の描写として「ヌヴェールを演じる瀬田を演じる日和下駄」によって反復される。この反復をぼくは戯曲を読んでいるときには気づかなかったが上演では気づいた。それは、俳優、日和下駄のイメージの同一性が、同一のセリフの反復と結びつく「印」として作用したからだと思われる。)

しかしその一方で、俳優の身体や演技の質は、役割や関係性や「交換される仕草の型(特にドレフュース役に顕著な)」の流動的な推移の中でも変化しない「頑健さ」も持つことによって、単なる「印」を超えた(「印」となることに抵抗するような)実在性を示すようにも思われる。しかしその実在性は、芝居が終わればそれぞれに帰っていくだろう生活の中に存在する俳優自身(の現実)からもこぼれ落ちていくもので、「演じる俳優」としての職能(パフォーマンス)の中にこそあらわになるような種類の実在性で、それは舞台の「外」に根拠を求められるものではないだろう。パフォーマンスの中でこそ顕になる実在性とは虚なのか実なのか。

(戯曲『脱獄計画(仮)』は、論理的にかなりキリキリと突き詰められるように書かれているが、公演そのものは「戯曲が持つ論理」に必ずしも縛られていない自由な運動の感覚があると感じるのだが、そこで「戯曲の論理」とは別の何かとして最も大きいのは「俳優」の存在だろうと思う。)

一方で、混乱を感じざるを得ないくらいの役割や関係性の流動化による実在の希薄化があり、他方に、それに抵抗するような身体的な実在の感覚があって拮抗しているとき、そこに現れてくるのは、存在の非固有化とでもいうような感覚ではないか。確かに「そこ」には何かが存在しているが、それが「わたし」であるのか「あなた」であるのか、それともまったく別の誰かであるのか。あるいは「この、これ」は、「コンクリートの壁」であるのか、それとも「海」であるのか。どれであってもよいし、どれであってもよくない。「この、これ」が「わたし」であることもあり「あなた」であることもあり、「その、それ」についても同様。「何かがある」ことと「何かである」ことが切り離されるような感触。それは、世界と存在者の接点としての「わたし」の位置が定位されていない状態が出現するということだろう。「わたし」が消失するというより、「わたし」の位置が浮遊する。

そしてそれは、観客から切り離された舞台の上で起こっているのではなく、観客のいる「ここ」で起こっていることだ。観客が劇に参加することはないとしても、上演によって変質した空間が観客を包み込んでしまうので、観客も「外」に立つことができなくなる。

●フィクション内フィクション、フィクション内現実、その外=現実という3つの層が重なっていると書いたが、それとは別の3つの層も考えられる。「戯曲」「初演」「再演(再現)」の三層だ。フィクション内フィクション、フィクション内現実、その外=現実というのは世界の位相の違いだが、戯曲、初演、再演(再現)は、成立した時間の順番の違いであり、通常は、より古いものが、より根本的な根拠であることになる(戯曲⊃初演⊃再演)。しかしここでも階層構造は崩され、いま、ここで行われている再演(再現)こそが、遡行的に「初演」と「戯曲」とを作り出すということになる(戯曲=初演=再演)。だが、「再演」こそが「初演」や「戯曲」を作り出すのであれば、どんな再現をしようが、それはことごとく既に戯曲に書き込まれていたことの反復となり、戯曲の「外」はなく、「いま、ここ」に自由(新しさ、わたしの固有性)はないことになる。

このような徹底して閉じた構造(ウロボロス的に閉じている)を作ることによって目指されているのは、作品という閉じて宙に浮いた「完璧な球体」を作るというようなことではなく、逆に、この世界全体を「フィクション内フィクション、フィクション内現実、その外=現実という3つの層が重なり」「戯曲=初演=再演(再現)が一元化された時空」の中に包み込もうとすることが目指されていると思われる(「その外」や「いま、ここ」が含まれているので、構造は「開かれている」はずなのだが、それが事後的に「実は閉じられていた」ことにひっくり返ってなってしまうという構造になっている)。だから、『脱獄計画(仮)』がやろうとしているのは、何がしかのフィクションの提示というよりは、いま、ここという時空そのものを変質させてしまうということだろう。観客は、劇の上演に立ち会うというより、時空の変質に立ち会う。

●描写することは、ある状態を記述し再現することだが、描写が事後的に「ある状態」を作り出すという側面もある。そして、なされた描写は語り直される。ここでは原案小説である『脱獄計画』は、演じられるという側面もあるが、引用され、語り直されるという面が強い。俳優は、状態や行為を演じることと「言葉で語る(描写する=引用する)」ことの間を行き来する(たとえドレフュースは「演じる」ことのカリカチュアのように大袈裟に演じられるが、ヌヴェールの状態は描写=引用されることも多い)。また、原案小説における「迷彩」は、手術を受けていない者には読み取れない描写=表象=再現前であり、しかしその描写=再現前は「総督」に強いられたもので、手術を受けた者には迷彩=描写が唯一の現実として与えられており「描写を読まない自由」がない。彼らは監獄の中で常に、描写を読み直し、現前させ直すことの反復を強いられている。他方、再演(再現)によって、戯曲や初演を「作り出すことによってそれに従う」ことが強いられている『脱獄計画(仮)』の人物たちが直面しているのは「唯一の現実」ではなくその逆の、実在と描写の「一対一対応」の崩れであり、それによる、どんな「新しさ」も「既に書かれたもの」の内へと拘束されてしまう反復構造そのものだろう。

●だが、構造的に閉じているが息苦しくはない、というのがこの上演から得られる感覚で、それはこの上演が「戯曲が持つ論理」に必ずしも縛られていないということだろうと思われる。例えば冒頭から、俳優と俳優との距離の感覚が常識的なものとは著しく異なっていることが強い印象を作り出すのだが、それは「戯曲」には書かれていない。また、ドレフュースのキャラ(仕草や喋り方)が、「原作(原案)」を読んでいるときにはこんなキャラを想定していなかったんだけど…、と戸惑うようなもので、これもまた「戯曲」にも「原作(原案)」にも書き込まれていないと言える。俳優一人一人の演技の質感や佇まいや特徴的な仕草、身体的特徴なども当然、「戯曲」にも「原案小説」にも書かれていない。また、あるセリフは戯曲として読んだ時にはとても面白かったが、上演で耳で聞くとそれほどでもなく、別のセリフは、戯曲として読んだ時にはどうとも思わなかったが、上演ではとても面白く響いた、ということもある。

たとえば衣装。それぞれの俳優の衣装は、「役を演じる」ことにどの程度貢献しているのか。この作品では、一人の俳優が複数の役を行き来するので、衣装がその特定の一人と結びつかないのは当然だが、フィクション内の出来事として、インタビュアーであるロビンが、そう望まないうちに初演のときのヌヴェールを「再現」させられてしまうというとき、その再現には「初演時の衣装」は含まれていない(フィクション内のロビンがそのときにたまたま着ていた服で「再現」するはずだ)。戯曲内の論理では、反復時の衣装は任意であり、俳優と役と衣装との関係については特に指定はされない。だがそうだとしても、実際に上演するときには、何かしらの衣装を、何かしらの理由で選択しなければならない。その際の「この衣装を選択した理由」は戯曲には書かれていない。そして実際に上演を観ると、五人の俳優の衣装のアンサンブルや、俳優と衣装との関係を面白いと感じる。

(おそらくここで衣装は、とりあえずは俳優の役のレベル―-土井、瀬田、ロビン、桑沢-―を表象するものとして選ばれているように思われるが、そこに収まらない、「俳優の役」からもズレて逸脱していく要素が感じられる。)

これらの、あらかじめ書かれた「戯曲の論理」には従わない(戯曲の論理の「外」にある)、新鮮な細部や運動は、ある意味では「戯曲の論理」と矛盾しているとも言えるが、それらがこの上演の「面白さ」の多くの部分を担ってもいる。それは、この上演が、いま、ここという時空そのものの変質を目指していて、仮にそれが完璧に上手くいったとしても、しかしそれでもなお「世界のすべて」を包摂したわけではなく、そこからこぼれ落ちるものが、いま、ここにさえあって、跳ね回っているということを、「この作品」が同時に示しているということであるのだと思う。自由や新しさのまったくない状態を作り出そうとしているこの上演から、自由さや新鮮さを強く感じるという矛盾は決してこの作品の瑕疵ではなく、その二重性にこそこの作品の面白さがあると思われる。

(戯曲に書かれていないことをもって「戯曲の論理の外にある」とするのは間違いかもしれない。戯曲に直接は書かれてはいないが、戯曲から導かれるもの、というものもあるだろう。)

(戯曲を読んでいるときにはまったく感じなかったのだが、上演で、最後に「初演がやってくる、わたしたちは存在しない…」となる場面で、高橋洋的なものを感じたりした。)