2020-09-23

●つづき、『彼方より』(高橋洋)について。

●映画の冒頭、暗い書斎のような部屋を引き気味で撮っているカットでは、河野和美が映っている大きなモニターがあり、その傍らに大田恵里圭が映っている小さなモニター(ノートPC)も見えるのだけど、園部貴一が映っているモニターは見当たらない。このカットには「本番いきます」「よーいハイ」「違う違う違う」などの画面外からの声が被っていて、「リモート映画を撮影していますよ」というフィクション外フィクションの時空が示されていると言える。

(追記。もう一度よく観てみたら、手前の椅子のところにノートPCが一台置いてあるのが見える。ということで、これ以降の話の前提が大きく崩れた。)

(この映画は、実際にリモート映画として撮影されているが、同時に、フィクションとしての「リモート映画を撮影している」という層をもつ。)

そのままフィクション内フィクションの領域に入って、カメラが河野を映すモニターに徐々に寄っていき、「ホレイショ登場、ハムレット」というセリフの後にカットがかわると、最初のカットにはなかった園部のモニター(ノートPC)があらわれ、そのモニターには河野のモニターが反射して映り込んでいる(二つのモニターは対面していることが分かる)。つまり、このカットは最初のカットと空間的に連続していない。あるいは、連続しているとすれば、園部モニターは、最初のカットのカメラの位置に突然出現したことになる。

撮影されているのが生身の人間であるなら、人は自律的に移動するから、いつの間にかこの位置に来ていてもおかしくない。だからこのようなモンタージュでも「空間的に連続していない」とはあまり感じないだろう。しかし、通常ノートPCは自律的に移動しないので、「空間的に連続していない」あるいは「突然出現した」という感覚をもってしまう。

園部モニターには、「発言中」「レコーディングしています」という文字が出ているので、このカットは園部貴一が(回線の向こう側で)演技している様を、リアルタイムでカメラに撮っているということだろう。この前の河野モニターのカットもリアルタイムで撮影されているとすれば、この二つのカットは別々の時間に撮られ、後から編集で繋げられたことになる(前のカットでは、河野モニターの対面に園部モニターはなかったのだから)。だがこれは当たり前のことで、切り返しというのは、普通そういう風に撮影されるだろう。そもそも映画は切れ切れに撮影されて後から繋げられるものだ。しかし、モニター間で行われると、普通の切り返しがとても妙なことのように感じられる。

(この切り返しが、妙な人形を介して行われる、ということもあるが。)

俳優は、ここ(カメラのある空間)にいるのではなく、遠くにいて、その都度呼び出される。降霊術で霊が召喚されるように。河野知美と園部貴一と大田恵里圭は距離的に切り離され、それぞれ別の場所にいる(別の背景をもつ)。それが「この空間(降霊空間)」を媒介にして結びつけられている。そして、切り返し=編集という操作は、媒介としてある「この場所」の時空の連続性を、もう一回切り離してから、再び結びつけ直している。この、手続き(媒介)の二重性(二重に切り離されており、二重に結びつけられている)が、ありふれた切り返しを妙なものにしているのかもしれない。

というか、普通の切り返しを妙なものと感じてしまう時点で、観ているこちら側が、現実の次元とフィクションの次元との混同をして(させられて)しまっているのだろう。

そしてまたカメラが河野モニターに返され、河野の顔が示されたモニターを映し出しながら、園部と河野の会話(会話になっているのか分からない)がなされる。この時、画面に映っていない園部の声が、どこから来ているのかよく分からなくなる。本当に、河野モニターの対面に園部モニターがちゃんとありつづけているのか疑わしく感じる。園部モニターには河野モニターが映り込むが、河野モニターには何も映り込まないし(モニター間の非対称性がある)、園部の声は別の時間にレコーディングされたものが再生されていてもおかしくはない。

(このことにかんしても、そもそも映画において、画面と音とがいつも同時録音で同じ由来をもっている保証などまったくないのだから、別の時間に録られた音が切り貼りされても、それはごく普通のことなのだけど、その、ごく普通のことが改めて妙なことであるかのように---というか、映画の音声のもつ来歴の根拠の無さが、改めて---意識されてしまう。)

カメラは、河野モニターから傍らにある大田モニターへとゆっくり移動し、大田=オフェーリアが語りだす。そこで大田が「自殺するのをやめた」と言うと、絶妙のタイミングで園田が、「え、やめたの」と突っ込んでくる。このタイミングはまさに自然であり、同時性や時空の連続性を感じさせるのだが、ここで注意すべきなのは、園田のツッコミがカットを割って入ってきているということだ。つまりこの自然な時間の流れこそが、事後的な編集によってつくられている。さらに言えば、ここまで全ての俳優が、戯曲のセリフのような言葉を、古典劇のような調子で喋っていたのだが、ここではじめて、素で、不意に言葉が漏れてしまったような(役柄からこぼれ落ちたような)調子で「え、やめたの」と言う。この映画では、素で、自然で、連続的な時空が成立しているかのように見える時こそ疑わしい(事後的、人工的に作り込まれている)。実際、ZOOMなどの会話で的確なタイミングのツッコミを入れることは困難だ。

(繰り返しになるが、編集によって自然なリズムがつくられるなどということは、映画では当然、普通に行われているはずなのだが、そういうことがいちいち意識されてることになる。)

そして、この「え、やめたの」というセリフは、フィクション内フィクションとしての園田=ハムレットのセリフなのか、フィクション外フィクションとしての園田=俳優のセリフなのか、どちらともつかない両義的な位置にある。その自然で砕けた調子から、園田=俳優の言葉のように感じられるが、このツッコミはあくまで、大田=オフェーリアのセリフに対する反応なのだ。

●この作品で俳優は、リモート撮影を行っている俳優の役を演じており(フィクション1)、その俳優として戯曲のようなもの(シェークスピアに由来するハイナー・ミュラー?)のいくつかの役を演じている(フィクション2)と言える。とはいえ、この二つの層は明確に分けられているようにはみえない。たとえば河野和美は、フィクション2の層において、魔女的で予言者的な役を演じているが、フィクション1の層の俳優を演じているようにみえる場面でも、同様に魔女的で予言者的な性格をそのまま引き継いでいる。俳優たちは、前半では主にシェイクスピアに由来するセリフを演じている(フィクション2)が、後半になって、シェイクスピアのセリフにかんする解釈について議論する場面(フィクション1)でも、まるで書かれたセリフを読み上げるかのように演じている(演じ分けられていない)。だが、それとは別に、「榎本組」の撮影を中止させようとする場面や、いなごの大群の襲来を告げる場面(フィクション1)では、いわゆるナチュラルな演技で演じられる。

また、園部貴一を映し出す映像には三つの異なるレベルがある。(1)リアルタイムで配信しているディスプレイをカメラが撮影したもの。(2)配信を録画した映像をそのまま用いたところ。(3)録画した映像を再生しているディスプレイをカメラが撮影したもの。前半は(1)であるが、途中で何度か(2)が挿入され、終盤は主に(3)である。他の二人は常にリアルタイム配信なので、園部だけ他の二人とは異なる時間(まさに、時間が脱臼している時間)のなかにいることになる(大田恵里圭は途中でディスプレイの前から離脱して、河野のフレームに入り込むのだから、厳密には、時空のあり様は三人三様と言うべきかもしれないが)。

(つづく)