2020-09-25

●つづき、『彼方より』(高橋洋)について(9月30日まで限定配信)

https://www.youtube.com/watch?v=ar8hicvEzo0&feature=youtu.be

●昨日も書いたが、『彼方より』においてはフィクション内現実と言えるような基底的な層が成立していないと言っていいと思う。だから、三人の俳優たちが、Zoomのようなオンライン会議ツールを使って集っているという事実さえ、(フィクション内)現実として確定できるか分からない(実際に、あんなに変なZoomの使い方はしないだろう)。

ただ、三人の人のようなもの(人かもしれないし、幽霊かもしれない)が、ある一つの場所に集まっている状況だ、ということは言えそうだ。だが、同時に三人は、それぞれに異なる背景(空間)を背負ったままで、一つの空間に集まっている。彼(女)らは、それぞれが別の場所にいながら、一つの場所を共有している。通常のオンライン会議ツールの使い方をすれば、共有される場所はPCのディスプレイ平面であるが、ここでは、三次元空間のなかに、それぞれ異なるディスプレイとして配置されている。

そこには、PCが三台あるのだが、同時に、三人が集っているようであり、降霊術によって呼び出された三つの魂があるようでもある(「ここ」にあるのはあくまで霊媒---三台のPC---であり、魂そのものは彼方にある)。

三人の人のようなものが、それぞれに異なる背景(空間)を背負ったままで、一つの空間に集まっている。だがこれはインスタレーションではなく映画であり、三次元空間は、カメラで撮影されることで二次元へといったん解体され、編集されることで、空間が、「時間変化する一つの平面」として再構成される。空間が映画化される(時間変化する平面へ再構築される)ことによって、基底層のない、フィクションの多層的なひしめきが可能になる(三次元のままでは、三次元空間が基底層になってしまう)。

●一人の人物に一つのフレーム(ディスプレイ)が割り当てられ、(地縛霊のように)そこに閉じ込められている。人物は、ほぼ正面(こちら側)を向いていて、ディスプレイ画面(向こう側にあるPC内蔵カメラ)に近い位置にいる。彼(女)らを表示しているディスプレイ(PC)自身は自律的に前後に動くことができない以上、俳優たちのパフォーマンスにおいて、俳優たちの前に広がる空間を活用することができなくなり、パフォーマンスの幅が制限される。

そのかわり、俳優たちの背後にひろがる空間の表現性が高くなる。俳優たちが皆、ほぼこちらを向いているので、背景の空間は常に俳優の「背後」としてある。背景はただの背景ではなく、俳優たちには見えない(隠された)「後ろ側」という特性を帯びる。見えない場所には、見てはいけないものがあらわれる余地(予感)が生まれる。俳優たちにとっては背後だが、観客にとっては正面だ。だがそれは、「背後」として意味づけられた正面となる。

(追記。ディスプレイ=PCの背後と、人物の背後という、二つの層の「背後」があることになる。)

●「背後」の表現性は、三人の俳優たちそれぞれに異なっている。大田恵里圭の背後は、それ自体でとても表現性の高い、古い日本家屋の仏間のような場所であり、そのことが終盤の大田フレーム独自の展開(場所の移動と幽霊との邂逅)につながっていく。

園部貴一の背後には、無機質な壁と出入り口があるだけだが、ここで重要なのは、園部と壁の間にかなり距離があるということだ。無機質でがらんどうなこの広がりが、そしてその隅にある暗い出入り口が、ある表現の質を獲得しているし、園田のパフォーマンスのあり方を決定してもいる。

(また、園部フレームにはその対面にある河野フレームがしばしば映り込んでおり、このこともまた非常に強い表現性をもつ。)

河野和美の背後は、ただ暗い広がりがあるだけで、もっともフラットだと言える。だが、背後の壁がプロジェクターのスクリーンとなっており、これにより、河野フレームではフレームの多重化や他のフレームからのイメージの受け入れが可能になる。また、背景の表現性が最も弱い---フラットな---河野フレームにおいては、そのかわりに、河野自身の「顔(特にまなざし)」が非常に強い表現性をもち、この作品のトーンを決定しているとさえ言えるだろう。

●四つの空間(俳優たちのいる三つの空間と彼らが集まっている部屋)を、串刺しするようにして連続性をもたらすのが「ノックの音」だが、この音が何処で鳴っているのか分からない。というか、離れた別の場所であるはずの四つの空間に、同時にノックの音が響くことで、連続していない空間に連続性が生まれる。つまり、あり得ない時空がたちあがる。

(その後の展開をみると、大田恵里圭のいる屋敷で鳴ったと解釈することも可能だが、基底となる層のない、複数のフィクションの層の折り重なりとしてこの作品を捉えるならば、ノックの音が響いたその時に成立していたフィクションの層においては、ノックの音は四つの空間すべてを同時に貫いていたと考えられる。)

一方、歌(ハミング)はズレる。このズレは、オンライン会議ツールを使う者にとっては親しい(リアルな)ものだろう(オンライン会議ツール独特の、キンキンした音質、時折ある音声の途切れ、動画の停止なども、表現性として充分に活用されている)。だがここでは、「音程が外れ過ぎて何の曲が分からない」という河野和美の声が、どこから来たものなのか分からなくなっている(この場面で河野の口は動いていない)。由来の分からない声が混じり込む。

●この作品において亡霊(幽霊)とは、まず一義的には「ハムレット」に書かれたハムレットの父王の亡霊であるだろう。しかし、ハムレットを演じる園部が、河野から、ハムレットが亡霊に出会った後のセリフの解釈について問い詰められ、亡霊とは何かと問われると、園部は(デリダを介した?)「共産党宣言」の朗読で返すのだ。亡霊がヨーロッパにとりついている 共産主義の亡霊が、と。これにより「亡霊」という語の指し示す対象が拡大し(あるいはスライドし)、ここで言われている「亡霊」の由来(亡霊という語の意味の基底層)が分からなくなる。亡霊がさらに亡霊化する。たたみかけるように、大田による「亡霊の経験」についてのテキスト(デリダ?)が朗読される(上演から朗読への移行)。

(この後の、河野と大田による「ハムレット」の兵士どうしの会話の挿入のされ方はゴタールっぽい。)

そしてまた、朗読から上演へ移行。朗読と上演との違いは、今、口にしてる言葉の由来が、手元にある本だということが、示されているか、いないのかの違いだろう。検索して分かったのだが、「私はマクベスだった、王は三番目の側室を私に提供した」というセリフは「ハムレットマシーン」からきているようだ。シェイクスピアの「ハムレット」だと思っていたのに、いきなりハイナー・ミュラーが出てきて混乱する。ここでも、由来(出自・引用元)の横滑り的な移行がなされていると言える。

つづいて園部により「殺人への決意」が語られ、彼は出入り口から消える。

●それに次いで唐突に、コロナ禍の現実を直接的に反映したような、ナチュラルな描写が挿入される。だが、自然な俳優どうしの会話であるようなこの層においても、河野は魔女的な人物でありつづけている。

ここでは視線のあり方もまたナチュラルであり、自然であることによって変な感じになっている。河野がカメラ目線で「リモート映画なんか撮っても無駄、映画の死を加速させるだけ」という時、この視線によって、カメラの背後にいる「映画を作っている人」が(あくまでフィクションの一つの層として)浮かび上がる。

●「映画の死」が口にされた直後、戻ってきた園部は、今度は(ハムレットではなく)王を殺した直後の「マクベス」を演じる(だが河野は園田に「やったのね、ハムレット」と言う…)。ここで園部が殺したのはクローディアス(ハムレット)なのかダンカン(マクベス)なのか、それとも「映画」なのか、誰でもない誰かなのか。それは分からないが、とにかく決定的な行為(殺人)が行われてしまったということは確かなようだ。

いや、そうではないか。クローディアスを殺し、ダンカンを殺し、映画を殺し、個別的な誰かを殺した、フィクションにおいて決定的な行為を犯してしまった様々な人物が、その行為が、それぞれ個別のフィクションの層として、ここではそのまま折りたたまれていると考える方がよいだろう。由来からの切断ではなく、由来の横滑りなのだ、と。

そして全てを貫くノックの音が。

●四つの異なる空間を貫いて同時に響く音は、三種類ある。(1)ノックの音、(2)悲鳴、(3)いなごの大群の羽音。ノックの音は亡霊の訪れを、悲鳴は亡霊の現れを、そしていなごの羽音は、亡霊の出現による世界の変質(あの世のこの世化)を、それぞれあらわすだろう。

三つの貫く音に対して、各々のフレームで歌われる歌(ハミング)は決して重ならない。フィクションのそれぞれの層は、折り重なりながらも同期しない。

●「The time is out of joint」が「時間が脱臼する」であり、「To be or not to be」は「亡霊がいるのか、いないのか」であるとする。そして、亡霊が現れると、時間が脱臼し、この世とは違う時間が流れはじめる。

悲鳴の後で、園部フレームの映像がライブから録画にかわり、それでも、ライブの河野フレームとの対話が可能なのは、ここで既に時間が脱臼しているからだろう。というか、この作品そのもののあり方が、それ自身として脱臼した時間の実践であると思う。

(追記。河野は、一方で「あの世がこの世になる(あの世が到来する)」と言いながら、もう一方で「時間の外に出て映画を撮り続ける(外に出る)」と言う。あの世がやってくるのか、この世から出てしまうのか。つまり、あの世がこの世全体と取って代わるのか、あるいは、あの世がやってくるのは、この場で上演=降霊会を行うことでこの世の外に出てしまう者たちにとってだけなのか。)