(前からつづく、戯曲『想像の犠牲』について)
⚫︎以下に引用するのは、土井によって書かれた記録としての戯曲で、かつて行われた上演では西川(西川役の人)によって語られたとされる、演出家が〈弟〉に語ったという「いつか書き上げる小説」の登場人物が見た夢の話。ただし、上演によって語られるフィクション内では「この話」はそもそもロベールが書いたという戯曲(ロベールが収集した「事件」)に含まれていることになっている(ロベールが書いたとされる戯曲が、演出家の書いた戯曲そのものと重ねられているような気配もある)。このように書いてみても一読では複雑すぎてもはや何が何だかわからないが、この複雑な入れ子構造によって、ここで「語られていることがら」が、それが所属すべき主体(主語)や時空から切り離されているということが、語られている内容と密接に関係しあっていることが重要だろう。
引用部分で、夢を見ている男は夢の中で、乾いた泥と銃声にまみれながら、多数の腐敗した死体が放置されている中を歩いている。
そのそばを歩く私が笑った。いや正確には、自分が笑ったのを感じた。魂がからだから引き剥がされるのを感じた。なぜ笑ったのか ? 笑いとはなんなのか ? ……これらを眺めながら歩くこと、こうして言葉として描写し、いつでも想像できるようにすること、それは裏切りに等しかった。だがこの裏切りという関係においてだけ、私は彼らと入れ替わることができるのかもしれなかった。私は加害し、私は死に、そして私はそのどれとも関係がなかった。想像し、想像させ、演じるだけだ。これは予兆だ。しかしこれから起こることではなく、すでに起こっていることの予兆なのだ。
泥と銃声にまみれた多数の死体を描写し、記録すること。それを、実際に殺戮の現場にあるわけではない自分がすることは《裏切り》に等しい。しかしその裏切りの行為によってのみ《彼ら》と「私」とは入れ替わりえる。それにより《私は加害し、私は死ぬ》。それが上演する(演じる)ということだろう(夢見ることは、夢を上演することだ)。しかし、演じたところで結局、「私(ここ)」と「彼ら(そこ)」は無関係だ。ただしこれは《予兆》としての関係であるとはいえる。上演する「私」は「彼ら」の予兆として、どこか特定の時空や主体に属していないどこでもない「ここ」に存在している。
この時、「ここ」に存在しているのは、「私」でも「彼ら」でもなく予兆としての誰かであろう。《これから起こることではなく、すでに起こっていることの予兆なのだ》。この部分を「これから起こること=未来」「すでに起こっていること=過去、あるいは現在」と読むのは単純すぎるだろう。ここで、昨日の日記で引用した『ゴジラSP』のセリフを思い出そう。《過去の大部分が未来によって構成されています》、《過去を変えられるのなら現在はすでに変わった後の未来、わたしはすべてを知っていたのに意味はまったくわからなかった》。過去はこれから起こることでもあり、未来はすでに起こっていることでもある。
無限回とまではいかないとしても、すでに複数回の繰り返しが繰り込まれているものとして「今、ここ」を考えるのならば、過去に起こったことも、未来の可能性も、今、ここにおいて《すでに起こったことの予兆》として存在しているのだ、と言える。『想像の犠牲』における「予兆」という語は、このような意味として捉えられるだろう。
⚫︎以下は、演出家の前作『脱獄計画』について取材したドキュメンタリー映像が、上演メンバーたちによって再現される場面で、演出家が語ったとされる言葉を西川が演じている場面(西川自身の言葉ではなく引用だから〈〉で括られている)。つまりは「演出家の言葉」なのだが。ここは、この作品のモチーフについて、わりとベタに語られているところだと思われる。まず、演劇(上演)について語られる部分。
〈『脱獄計画』にある〈個人の革命〉っていうのは、まさに演劇と結びついているんじゃないかと思っていて。要は今ありありと感じられて動かしがたいこのからだの認識を想像によって書き換える。……この皮膚の境界で個人を数えて、殺したり、殺させたりすることを繰り返してきた歴史、その予兆とも思える、人間全体の分厚い了解。それに対して、別の人間を演技して、観客に想像させて、目の前に見えているこのからだが誰なのか、数えられない複数になる事はね。まさに革命、あるいはそのための蜂起じゃないかと思うんです。(…)〉
ここで用いられる《分厚い了解》は石原吉郎の詩から引かれた言葉だ。ここではテキスト通りに《皮膚の境界で個人を数えて、殺したり、殺させたりすることを繰り返してきた歴史、その予兆》という意味と考えればいいだろうか。
二人のフロイライン、エルナ・へードリッヒとケーテ・へードリッヒ。(第一ウクライナ方面軍、フョードル・マイマーノフによって ? )ケーテは銃殺され、エルナは凌辱される。
風がフョードル・マイマーノフを奪った 森へ来て彼
は銃倉を抜いた
〈凌辱されたロシヤのひとりの処女のために〉
彼の良心をモスクワがささえていた 脂に濡れた引鉄
の下で アジヤの坑夫の指は安堵の平穏をたもっていた
国境が遠ざかった エルナ・へードリッヒの素足の下
に分厚い了解があった ケーテ・ヘードリッヒは無数の
記憶へ分解していた エルナはふたたびあとをふりむか
なかった 重い石がいっせいに墓穴へすべりおちた
《皮膚の境界で個人を数えて、殺したり、殺させたりすることを繰り返してきた歴史》に対して《目の前に見えているこのからだが誰なのか、数えられない複数になる事》によって抗すること。演劇・上演をすることによって、成そうとしているのはそういうことではないか、と演出家は語っている。そしてそれはつまり、《皮膚の境界で個人を数えて、殺したり、殺させたりすることを繰り返してきた歴史》としての予兆(分厚い了解)に対して、「今・ここ」を《すでに起こったことの予兆》が生起する場として、「私」でも「彼ら」でもない「誰か」たちが想像し、想像させ、演じるような場面として構成し直すということではないだろうか。上演とはそのような蜂起である、と。
〈(…)じゃあ戯曲は何なのか ? 僕の限られた人生が終わったあとも蜂起を呼びかけつづける、歴史の分厚い了解とは逆向きに進む予兆、と言ってもいいかもしれない。
僕らは戯曲を上演することで、過去に無限回繰り返された上演や、ここにいる人間みんなが死んだあとの、遠い未来の上演と連絡を取り合っている。そこで戯曲は伝言板の役割をしながら、歴史の分厚い了解をいつか逆流させるための予兆としてここにある、そんな気がするんです。〉
ここでも、未来へ、未だ生まれていない他者へと残し、受け渡すために書かれたテキストとしての戯曲があるという単純な話ではないことに注目したい。戯曲は、《過去に無限回繰り返された上演》とも《遠い未来の上演》とも、どちらとも《連絡を取り合っている》ものとされている。戯曲はここでは、いつでも、どこでも、誰でもない予兆であることによって、分厚い了解とは《逆向きに進む予兆》であると言われる。未来の上演の可能性もまた、過去に繰り返されたの上演と同様に、すでに今、ここにある戯曲に繰り込まれている。そのように捉えられていると考えられる。
⚫︎しかし同時にこの戯曲には、「勝手に役を押し付けないでください」といった、あくまで「この私」としてあろうとする俳優の側からの反論というか、疑義・不満もまた、繰り返し書き込まれもている(とはいえ以下の引用も、あくまで「高木役」の人に与えられたセリフなのだが)。
高木 (…)土井さん、土井さんが俳優をやめる気持ちがよくわかりました。何でここにいる私が「演出家」としてみられなきゃいけないんですか、私のこの、このからだの動きのひとつひとつを、役のそれとされなきゃいけないんですか。
⚫︎『想像の犠牲』の終盤では、もともと演出家の書いた戯曲には存在しなかったが、(戯曲の原案となった)映画『サクリファイス』ではクライマックスと言える、アレクサンドル(西川)がマリア(土井)と「寝る」ことで核戦争が無かったことになる場面を、メンバーたち(ロベールと西川)の提案によって付け加えることが検討され、それが試みられる(その場面が試しに演じられる)。そして、その上で、当該場面が加藤によって強く批判されることで、合議が成り立たずに暗礁に乗り上げてしまい、ロベールが《上演をやり直しましょう》と宣言する、という展開となる。過去の上演の再現としての(土井が書いた)戯曲はここで終わり、このようにして彼らの「上演」が破綻したのだ、ということになる。
加藤による(実質的には『サクリファイス』に対する)批判は次のようなものだ。
それは結局は自己犠牲そのものであるどころか、その全体がなかったことにされてしまう。マリア自身、救済のためにあなたと寝たこと自体を忘れている。(…)ふたりに魔女とみなされて、勘違いから自分の意思で寝たことにされて、表向き言葉を失う西川さんとはまた別に、ほんとうにそこで言葉を奪われているのは誰なのか ? その土井さんの足元に、まさにエルナ・へードリッヒの〈分厚い了解〉が反復されないと考えてるんなら、正直言って、能天気ですよ。
アレクサンドル(西川)による自己犠牲(その自己犠牲には、マリアの強いられた犠牲が隠蔽されている)で、核戦争が「無かったこと」になるという『サクリファイス』の場面では、演出家が考えていた、分厚い了解とは《逆向きに進む》ものとしての演劇とは程遠いものにしかならない、というのが高木の批判であり、それはもっともな意見であるだろう。ゆえにこの上演は完結することができず、(一度の上演のみで)破綻した。
過去の再現として土井が書いた戯曲はここで終わるが、戯曲『想像の犠牲』には、この後に土井によって付け加えられたコメントがづついている。そこには、ロベールによる中止の宣言の後に、演出家の戯曲にはなかったが付け加えられた「(『サクリファイス』の)場面」を描写する言葉が、自分の口から出たことが語られる(つまり、土井はその場面を自分の口で描写することで改めてもう一度上演し直したのだ)。そして、そこで「描写された場面」は、通常であれば(『サクリファイス』における核戦争や、マリアの強いられた犠牲と同様に)上演の度に、あるいは永劫回帰の反復の度に、繰り返しなかったことになってしまうような場面である、とも語る。そして、この「繰り返しなかったことになる」ということそのものが、加藤が批判する〈分厚い了解〉の作動である、と認める。
だからこそ、この「失敗した(良くない・間違った)場面」でさえ、この失敗(破綻)そのものさえ、無かったことにしてはいけない。予兆としての「この戯曲」に書き込まれていなければならないのだ。
土井はそれを確認した後に続けて、その上で、今、自分が想像しているのは《このセリフをしゃべっているはずの、俳優のからだのこと》だと言い、さらに続ける(太字ではない〈〉内は、『サクリファイス』のマリアのセリフからの引用)。このセリフは、この戯曲の終幕に相応しいものだと思われる。
(追記)一つ目の引用部分の言葉は、戯曲・テキストを書いている(とされる)土井から、今、まさに土井の役を演じているであろう「俳優のからだ」に向けられている。ここで「あなた」と呼びかけられているのは、俳優自身というより、俳優のからだである。そして、この戯曲が上演されるならば、この言葉は、ここで呼びかけられている、その当の「からだ」によって発せられることになる。「あなた」とは「このからだ」のことであり、ゆえに、ここで土井の役を演じ、土井のセリフを発している「このからだ」は、言葉の主体である土井から切り離されている。土井という役から切り離され、俳優自身からも切り離された「このからだ」は、複数の《それを演じる私たちのからだ》のひとつとなる。
(追記)戯曲とは、将来なされるかもしれない(未だなされていない)「上演」を、すでになされたものとして、先取り的にその内部に繰り込んでいる形式だ、と言えるかもしれない。
あなたは土井さんと呼ばれた。あなたはマリアと呼ばれた。あなたのからだに不釣り合いな、薄暗い階段を通り抜けた先にあるそこは、秘匿された魔女の部屋に似ていた。ひとつの水が〈分厚い了解〉の予兆として、あなたに秩序に一部となることを強いていた。あなたは言った。〈何もかもうまくいきますわ 落ちつきなさい 何も恐れる事はないのです もうなんでもないのです〉それを代わりに話すあなたは、あなたではなかった。この言葉を聞いてあなたが想像するマリアは、マリアではなかった。その想像の水から、あなたはいつもこぼれ落ちる。どうしてか ? 演技は単一の役を想像させるけれど、それを演じる私たちのからだは複数だから。
私はまさに「演出家」が言ったとおり、それが裏切りになるとしても、伝言板としての戯曲を書きたいと思う。いつか歴史の〈分厚い了解〉を逆行させるために、なかったことを、いや、私たちがなかったことにされた出来事を、いつでも思い出せるようにしておくためにだ。
(とりあえず、ここまでで仮の終わり。)