2023/12/05

⚫︎「想像のなかの役まわり」(山本ジェスティン伊等)を読んだ。

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⚫︎冒頭に、次のような文が置かれる。《ちょっとした身ぶりひとつで、からだの周囲が川べりや路地やカフェのテーブルに似る。それとおなじようにして、劇場の舞台であるような場所。》これは、「演出家」の弟によって「土井さん」に渡された戯曲の冒頭のト書きであるとされるが、そのまま「この小説」のありようをも示している。この小説では、登場人物の《身ぶりひとつ》で場面(からだの周囲)が変わり、その場面は、《川べりや路地やカフェ》だったりする。

「身ぶり」は、まずカフェを出現させる。《私と弟が靴を脱いで一段上がると、私たちは古民家を改装したらしいカフェに座っていた》。ここでは、「靴を脱いで一段上がる」という行為(演技?)の能動性が、カフェという環境を生み出したかのように書かれている。だが後半では、自らの能動性ではなく、他者による関与によって環境が変化する。《ベルが鳴って、振り向くと眩しかった。ハンドルにリードを括りつけて犬を走らせる自転車が、私と弟のあいだを割って通り抜けていく。私はそれを見送ることでようやく、自分が道ばたに立っているということに気づいたのだった》。それまで土井さんと演出家の弟を囲んでいたギャラリーの中という環境が、二人の間を通り抜ける自転車の介入によって《道ばた》へと変化する。このように、この小説では、ある場面(環境)の中に登場人物がいるのではなく、人物の動きが環境を作り出し、作り替える。さらに、この環境の変化は、とても細かな行為によって引き起こされるようになる。《(…)弟が歩きだしたその一歩め、というよりもかかとかつま先が地面から離れるその足取りが、すでに川べりを歩いているのとおなじようなものだった》。このように、この小説は《劇場の舞台であるような場所》のなかで生成されている。

⚫︎演劇では、ともかく俳優がいることは自明であるように思われる。からだが、一つあったり、二つあったりする。一人の俳優が複数の役を担ったり、一つの役が複数の俳優によって分け持たれたりすることもあるだろうし、まさに《身ぶりひとつ》で場面が変わったりすることもあるだろうが、そこにからだが一つあったり、二つあったりすることは確かで、それを一つの基準とし、頼りとすることができる。

この小説では、ひとまずからだは三つあるようだ。演出家の弟、土井さん、ギャラリーのスタッフ(「黒田まゆみ」のからだが舞台上にあるかどうかは微妙な書き方がされていて、「演出家」と「Nao Yamagami 」は伝聞によってその存在が匂わされる存在だ)。演劇では、ともかくからだはそこにあって、体と役とは分離できる。しかし小説では「からだ」は直接示されず、そこには役(名)だけがある。だから、次のようなことが起きる。

そもそも私はスタッフをスタッフとしてしか捉えていなかったのだから、私に話しかけたスタッフと、今このように弟に控えめに語りかけながら目に涙を浮かべるスタッフとがすり替わっていたとしても気づかない。というより思い出せない。多分、入れ替わっていただろう。もしこのことが本当だとしても、おなじ人間として私は書いたと思う。

小説では、演劇における「からだ」のような最低限のとっかかりさえ怪しくなる。役(名)が、ある一つのからだを指し示しているのか、たんに「役」を指し示しているだけなのか決定できない。

「スタッフ」はたんなる「役」に近い呼び名で一般性が高く、「土井さん」は固有名であり限定性が高く(さらに「語り手」でもあるので唯一性があるように感じられる)、「演出家の弟」は「スタッフ」より限定性が高いが「土井さん」よりは一般的な呼び名だ。さらにこの小説では、「演出家の弟」はしばしばただ「弟」とだけ記され、「演出家の弟」なのか「土井さんの弟」なのか混乱する。《弟さんは、――」とこちらの目を見ながら彼についての質問をするので、今だからいうが、私は居心地が悪いのをその都度抑えなければならなかった》。「スタッフ」は役割を示す言葉だが「弟」は関係を示す言葉なので、誰の弟なのかという起点によって違う位置が指示される。

「土井さん」「弟」「スタッフ」というそれぞれの語は、演劇で言えば「役」であると同時に「からだ」でもあるという二重の役割を背負っていることになる。ここで「土井さん」の役とからだの関係は比較的安定して一対一対応が成立しているようだが、「スッタフ」という一つの役には、複数のからだが代入され得るし、対して、「弟」という一つからだには、複数の役(演出家の弟、土井さんの弟)が代入され得ると考えられる。

(からだと役が完全に一致しているのが「黒田まゆみ」なのかもしれないが、しかし最もからだ感が希薄だとも言える。)

⚫︎そのようにして進行する小説だが、最後の「桜を見る」エピソードで語り手(経験の主体)としての土井さんの唯一性に揺らぎが生じる。演出家の弟は土井さんに向かって次のように語る。

《(…)この川の向こう側の、さらに道を一本離れたところを、父の葬式の時にね、兄と二人で、タクシーで通ったんですよ。そのとき桜が咲いていたんで、さっきYamagami さんの作品を見てそのことを思い出したんですが、兄が、あとすこしこの世に踏ん張ってればこの景色が見られたのにと言うと、運転手は、

「いや、見ておられます。」

と言った。そのとき僕は寝てたし、だから兄から聞いただけなんですけど、父のことを知らない運転手が、ふいにそんなふうに言い切ったというのに不思議な感触をもった》。

この出来事はあたかも「弟の視点」による経験であるかのような語られているが、実は兄の経験の伝聞である。それに対して土井さんは次のように応える。

弟さんの話を聞いてるうちに、私は自分がよく木登りをしていた小学校の校庭に植わっている桜を思い出しながら、「演出家」がタクシーで通りぬけた桜並木の景色を感じました。そういう景色の前で、運転手が断言したくなるのも、なんとなく気持ちはわからなくもない。私は誰が見た桜を見ているんでしょうね》。

ここで土井さんは、弟による兄(演出家)からの伝聞の語りを聞きながら、過去の自分の経験を惹起させつつ、「演出家が見た桜」を見ているし、「タクシー運転手の見た桜」を見ているし、「演出家の父が見なかった/見た桜」さえ見ている(つまり、極端なことを言えば、演出家でもあり、タクシー運転手でもあり、演出家の父でさえある)。この時、二人は川べりを歩いているが《今見えている空間が何メートル先なのかもわからないほど暗かった》という環境の中にいて、桜を見ているわけではない。ここで土井さんはただ、暗闇の中で、兄が語るタクシー運転手の語りを伝聞した弟が語り直す桜の話を聞いているだけだ。

この時、他者の見た環境(演出家の父が見なかった/見た桜)を作り出しているのは身ぶりではなく描写だ。

⚫︎ここで、小説の中盤に置かれた風景描写についての演出家のテキストが思い出される。だがそこには、ここまでぼくが書いてきたこの文章では見落とされていることが書かれている。

《(…)各々の生の文脈を素材として用いながら、観客は俳優の発話と身振りに触発されることで今ここにない環境を想像し、演出家ないし俳優の表現として空間にあてがう。(…)私が思いを馳せるのは、それをうながす発話や身振りよりも、描写を見聞きしながら舞台上にたたずんでいる、他の肉体のことである。ただそこに立ったり座ったりしているだけで、観客によって想像された環境の渦に巻き込まれ、部屋に、砂漠に、宇宙船に、あるいは戦場に立たされていることになる肉体のことである》。

見落とされていたこととは「それ(風景や環境を立ち上げること)をうながす発話や身振りよりも、描写を見聞きしながら舞台上にたたずんでいる、他の肉体のこと」だ。演出家のテキストは続けて、『サクリファイス』に出てくる《郵便配達員とアレクサンデルにあてがわれた魔女の役を演じるほかないマリア》、そして魔女を演じたあとに観客からも忘れられるしかないマリアについて書いている。郵便配達員やアレクサンデルの身ぶりや描写によって「魔女」の役を(受動的に)あてがわれた、ただ《舞台上に佇んでいる》だけの《他の肉体》としてのマリア。

他者の身ぶりや、他者の描写や語りによって、受動的、一方的に「役」を割り当てられた「からだ」は、役割を終えると何ものでもないただの「からだ」になって、そこにあるが、忘れられる。このような、役も名も失って舞台上にあるだけのただの「からだ」を小説において表現することは困難だ。

⚫︎この小説がやろうとしていることは、まず、(1)人物の身ぶりや描写(語り)によって環境が生成されるような場を立ち上げ、(2)「役」と「からだ」との一対一対応を揺るがすことで、役が経験する「経験=環境」を「役」という経験の主体から切り離して、さまざまな主体(役)において交換可能な経験とすること、つまりそれは読者もまたその経験=環境の主体となり得るようなものとすることではないか。そしてさらに、(3)そのような操作=出来事を通じて、どのような「役(名)」からもこぼれ落ち、忘れ去られる、何ものでもないただの「からだ」の存在を触知させようとするということではないか。