⚫︎巣鴨で、Dr.Holiday Laboratory『脱獄計画』(仮)のミニシンポジウム。
会場の都合でもう終わりにしなければいけない時間が迫っている(残りわずかしか時間がない)と言った後、唐突なように山本伊等が「このことをずっと聞いてみたかった」と切り出し、「自分は作、演出をしていて、自分でやりたくてこの作品を作ったから、これは自分の作品だと言えるが、俳優やスタッフとして参加してくれている人たちは、どういう感じで(どういうモチベーションで ? )この作品に関わってくれているのか、どうやって(どういうやり方で・どの程度)これを《自分の作品》とみなしているのか」という、総督=演出家が主導する「共有される実験(合意の基礎)」を主題としたこの作品と深く関わるとも言える、しかしそれ以上に、演劇をはじめとする集団制作を行おうとする時に必然的に立ち上がる、最も素朴で、かつ根本的な疑問を口にしたことが、とても強く印象に残った。
というのも、ぼく自身が、例えば映画を作りたいという気持ちがないわけではないとしても、そこで二の足を踏んでしまうのは、自分の作品に他人を巻き込むということがどういうことなのかという点について、自分なりに納得できる答え(というか、気持ちの落とし所)を得られていないということがあるから。仮に、積極的に協力してくれるという人がいた場合に、ぼくはその人の協力に対して何をどう返せばいいのかよくわからなくなる。あるいはその協力をどの程度と見做していいのか(協力してくれるからといってどこまでも無理難題を押し付けるわけにはいかない)を、どう掴めばいいのかわからない。完全に商業的な作品であれば、職業的なスタッフと職業的な俳優と経済的な契約関係になるからスッキリするのだが、ぼくが作るとしたらそういうものではないだろう。
山本さんの場合、芝居の稽古といっても俳優たちと延々と話し合っている時間がほとんどだというし、いわゆる演出家=権力者という感じではなく、そこには確実に共同制作があるのだろうと思うが、それでも、山本さんが主催する団体が製作する、山本さんが書いた戯曲を元にする上演なのだから、この作品の立ち上がりというか、最初の欲望(きっかけ)は山本さんにあって、他の人たちはそれに協力するということになる。そこにある根本的な非対称性を、山本さんが最後まで気にしているということに、ああ、やはりそうなのか、と思ったのだ(この話に結論はないが…)。
⚫︎客席からの質問(?)で、「演劇は途中で止めることができる」という意見が出たのは興味深かった。映画ならば既に完成したものが上映されるが、演劇では上演の途中で俳優の気が変わって舞台を降りて帰ってしまうことができる。この作品ではむしろ逆というか、俳優がたまたま転んでしまったとしても、それが「演劇」として観られている以上、「転ぶ」ことはあらかじめ決められていたことであると観客から読まれてしまうという側面が強調されている。戯曲、あるいは演出家とは、そのようにして事後的に出来事を自らの主体性へと回収する権力としてある。しかし一方で、俳優は上演の途中で「演劇」というフレームから降りてしまうことができるという主体性を持つ。俳優が嫌になって途中で帰ってしまうこと(演劇というフレームを途中で放棄してしまうこと)を「戯曲」という権力は阻止できない。演劇=上演という枠組みが壊れてしまった先にまでは、戯曲や演出家の権力は及ばない。この指摘はこの作品に対して結構クリティカルではないか。
(「演劇は途中で止めることができる」という事実がこの作品に対して持つ緊張関係が興味深い。)
とはいえ、第二部での山本浩貴による詳細な分析が示す通り、『脱獄計画』(仮)が目指すのは、戯曲や演出家といった「権力の解体」ではないだろう。俳優の身体の解放でも、土井さん、瀬田さん、桑沢、ロビンといった虚構内実在人物が、戯曲や演出家という権力によって奪われた主体性や自由意志を取り返すということでもない。確かに、劇の展開として、登場人物間の主導権の奪い合いがあり、戯曲や演出家による操作圏内からの離脱への模索があったりはするが、その末に人物たちは、初演を再現しようとすることが事後的に初演を作り出しているのであり、いま・ここで自分がどう振る舞うとしても、その振る舞いこそが既に戯曲に書かれていたことの反復であるという事態を受け入れた上で、別の次元へと至ろうとする(というか、別の次元が到来する)。
《初演をめぐるループや〈役〉の強いられから、生身の肉体が解放されることが目的ではない。〈役〉が〈役〉そのものになることが目指されている》。(山本浩貴による発表のレジュメより)
⚫︎この作品の最も重要な特徴は、複雑に捻れた自己言及のありようであり、俳優の身体・虚構内実在人物・虚構内虚構人物という三重化された層の頻繁な入れ替わりにあると思われる。油井文寧が演じる土井さんが演じるドレフュースと、ロビン・マナバットが演じるロビンが演じるヌヴェールが「たまたま立っていた位置」を理由に役を交換させられて、油井文寧がヌヴェールを演じるロビンになり、ロビン・マナバットがドレフュースを演じる土井さんになったり(「土井さん」から「ロビン」になった直後の油井文寧の混乱したセリフ「ぼくのせいにしないでください、こっちだってインタビューしに来ただけなのに、勝手に再現しはじめたのは、今、ぼくをこうして演じている土井さんでしょう」、ここではまだ「油井・ロビン・ヌヴェール」になりきっていない身体=場所Xが、土井さんの名残に引っ張られて「油井・土井/ロビン・ヌヴェール」であるかのように語ってしまっている)、また、土井さん・ドレフュースを演じるロビン・マナバットが「わたしはロビンとして、ヌヴェールとして上に上がります」と、自らの意思(?)で役の交換を宣言してハシゴで二階に昇って一階から消えると(それによってロビンだった油井文寧は再び土井さんに戻る)、それまで役を奪われて「たんなる生身」として舞台上に居続けた石川朝日がロビン=ヌヴェールとして語り始める、とか。
「油井(土井さん・ドレフュース)」と「ロビン(ロビン・ヌヴェール)」のカッコ内の交換は、「黒澤(桑沢・ベルンハイム)」の指示によるのだが、虚構内実在人物である桑沢が、一つレベルの下がった虚構内虚構人物(ドレフュース、ヌヴェール)の交換を指示することができるのは分かるが、自分と同じ存在平面にある虚構内実在人物(土井さん、ロビン)の交換を指示することは本来できないはずだ。演出家が、俳優Aの役柄aと俳優Bの役柄bを交換して、Aをb役に、Bをa役にする事は可能だが、AとBの存在そのものを交換させることはできない。それが可能なのは一つレベルの上の神のような存在だろう。ここで起こっているのはそのようなロジカルタイプの混同・逸脱であり、それがこの作品の重要なキーになっていると思われる。
このような逸脱が可能となるのは、虚構内実在人物というレベルのさらに一つ上に「実在する俳優の身体」というレベルがあるからだろう。しかし、役割の交換の指示が発生する場所は、現実に存在する俳優の黒澤多生(の意思)ではなく、彼の持つ身体という「場」であり、それがある特定の位置Xを指示する匿名的な「指示語(ここ)」として機能している(指示するのは「戯曲」であるが、戯曲が指示を発することが出来るのは「俳優の身体」という場・位置があるからだ)。
ここでは俳優の身体という「実在する場=存在する指示語」があることによって虚構の階層構造が並立的に書き換えられている(このような操作を小説で行うことはとても困難だろう)。つまり、ロジカルタイプの逸脱=階層の並立化の実現のために、可換項が二層ではなく三層重になっている必要があったのではないか。
このような三重化された役割交換の錯綜と混乱によってなされているのは、決して「生身の肉体の解放」という方向ではなく、「役(あるいは魂)」が特定の肉体(特定の場所)という根拠を持たずとも「役」そのものとして成立するようになる(ことを「実感する」)ための下地づくりのような事だろう。
この複雑な構造に、感覚的になんとか食らいつこうとすることが、観客自身にとっての(新たな個の到来を準備する)エクササイズとしても機能しているのだと思う。
⚫︎山本浩貴による分析でとても興味深かったのは、この作品においては「行為」とその「由来」のカップリングもまた可変的になっているという指摘だった。