2023/06/19

⚫︎人から聞いた話で原点に当たってはいないのだが、ポン・ジュノがインタビューで、「映画を作るのに、準備に一年、製作に一年、プロモーションに一年かけるから、自分は三年に一本よりも早いペースで映画を撮る事ができない」と言っていたそうだ。もう十年以上前に聞いた話だと思うが、それを今でも覚えているのは、プロモーション(つまり、作った映画を「人に届ける」ための活動だろう)に、制作(準備や製作)と全く同じウェイトを作家自身が置いているということに驚いたからだ。そして翻って、自分はそれをあまりにも軽く考えてしまっているのだなあと思った。

プロモーションの部分を軽く考えているのは、その部分は誰がやってくれるような状態になることが望ましいというという「期待」がどこかにあるからだろう。出版社が本を作ってくれて、売ってくれる。画廊や批評家が展覧会を企画して、宣伝もしてくれる。仕事がある程度認められれば、そのような状態になるのではないかという期待がどこかにあり、またその期待にある程度は(極めて微々たるものではあるが)現実性があった時代に、おそらくぼくは辛うじて生きてきた(生きてきてしまった)。

しかし現在は確実にそうではなくなってきている。そうではなくなってきているのに、あたかもそうであるかのような幻想だけを膨らませて人を騙そうとする行為(サロンビジネスや「小説の書き方」本や講座など)は横行しているが。

賞という権威や、影響力のある人による評価、出版社など力のある媒介者とそのネットワーク、ジャンル内ジャーナリズム、それらをひっくるめた「業界」の神話力…、などがもはや有効には機能していない以上、作品の提示だけでなく、言説の立ち上げやその流通まで含めて自分で考え、それらを自力でやっていくしかないと「今を生きる」多くの人は考えざるを得ないだろう。

個人的に知っている黒川幸則さん(とプロデューサーの黒川由美子さん)も、映画を作って終わりではなく、パンフレットを編集し、上映中に頻繁にトークイベントを開き(時にはライブを行い)、海外の映画祭に作品を持って出かけていき、地方の映画館でも上映されるように働きかけを行い、上映されれば俳優やスタッフたちと一緒にそこに行って舞台挨拶やトークをする。普段から映画好きの人が集まる溜まり場のようなものを作る。そしてそれらのことをSNSを通じて提示していく。作り手が自ら行うそのような一連の行為と一体とならなければ、もはやインディペンデントな映画が成立するような場を存在させられないということだろう。

(例えば小津安二郎なら決してそんなことはしないだろう。ただ映画を作れば、配給や宣伝は会社が行い、興行収入や批評家の言葉という「評価」が自動的にやってくる。だから人は、まずはそのような「位置(=作家)」を得ること目指す。しかしそのような位置を得られる見込みは今では天文学的に低い確率しかなく、得られたとしても利点はその奇跡的確率に見合うものとも思えない。)

(とはいえ、現状でも「作家という位置」に全く利点がないとまでは言えないので、その位置を得られるのならば得られた方が望ましいとは言えるし、得ようとする努力を無駄とは思わない。ただ、そこに縛られ過ぎるのは危険で、宝くじが当たればラッキーくらいの感じがいいのではないか。)

⚫︎例えば「映画」ならば、その「支持体」はフィルムやデジタルデータだけではなく、映画館や映画祭のネットワーク、映像配信プラットフォームの存在やPCなどでも映画が観られる環境、映画研究者や映画好きの(比較的)著名な人の発言の載る媒体の存在、トークイベント(そのネット配信)やパンフレットの制作と流通などを通じた(潜在的な層も含めた)観客への働きかけ、ブログやSNSやFilmarksなどの観客の感想が投稿されるプラットフォームの存在など、それらすべて含めた複合的な条件が「(インディペンデントな)映画」を「物質的」に成立させている支持体だと考えないと「(インディペンデントな)映画」を成立させられない。それをしないと「映画」は「コンテンツ」として「資本主義」の中に溶けて消えてしまう。

かつてそのようなもの(ある程度は資本主義に抵抗するもの)として「業界」が機能していたが、もはや充分には機能していないので、業界とは別の「インディペンデントな場」を、別の仕方で、その都度自力で編成し、編成し直さなければならないということなのではないか。

投壜郵便では、手紙が海水に溶けてなくなってしまわないような頑丈な壜を作ることが重要だと、かつて佐藤雄一が書いていた。作品を作るだけでは、それはすぐに海に溶けて消えてしまう。だからそれに遠くまで伝達可能な(遠くに届くまで持続可能な)物質性を持たせる必要がある。かつては「業界」にある程度は「(資本主義とは別の価値を創造し、それを持続・継承させる場としての)壜」の機能があったかもしれないが今はあまり期待できない。だから「壜」の問題は切実だ。「作品の提示だけでなく、言説の立ち上げやその流通まで含めて自分で考え、それらを自力でやっていく」ための場をつくるのは、おそらくその「壜」をつくることなのだと思う。

(そのような意味で「紙の本」は流通形態まで含めて今もなお「壜」としてかなり強固なものではないか。)

⚫︎「作品の提示だけでなく、言説の立ち上げやその流通まで含めて自分で考え、それらを自力でやっていく」。Dr.Holiday Laboratoryによる自主シンポジウムも、そのような流れの中にあるものとして、とても重要な意味があると思う。

⚫︎と、ここまで偉そうなことを書いてきたが、自分のことを考えると、そこまで自分でやるのはあまりにキツい、となってしまう。若い頃から、実作と批評の両方を自分でやらないとしょうがないとは考えていたしそこは覚悟もしていたが、「表現を届けるための場(壜)を作る」までは考えが及んでなかった。それは世代的限界であると同時に個人的な傾向であり、ぼくにとってはあまりに苦手でハードルが高い(弱音だ…)。

(政治的な人は嫌いだが社交的な人は尊敬している。ぼくの場合は、その都度たまたま近くに社交的な人がいて引きこもりを引っ張り回してくれたから人との最低限の接点ができて今までなんとか生きてこられた。インターネットが日記=独り言を外に開いてくれたということもある。)

⚫︎ただ、「壜」はあくまで「作品(内容・表現・質)」を、成立させ、持続可能にさせ、継承可能にするための物質的基盤(支持体・器)であって、「壜」それ自体が目的化するのは違うということには留意すべきだろう。