⚫︎精神分析的な記述には、その分節・分析の鋭さへの驚嘆と、同時に必ず、ある種の香ばしさ・疑わしさの感覚があり、そこが面白くも怪しく、怪しくも面白い。ただそこで一つ不満に思うのは、精神分析的な問いば常に「主体をめぐる問い」であり、主体の謎へと着地するしかないところだ。主体にかんする問いは避けられないにしても、そこに着地するのではなく、そこから(世界や「外」へと)飛躍することはできないだろうか。
昨日の補足、『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』の6章「颱風の眼」の冒頭部分。
《ラカンは眼差しや遍在視という観念を、光の捕えがたい煌めきとして描き出している。主体はその煌めきを遮蔽するスクリーンとなり、あるいはそこに自らのシルエットを不在というかたちで浮かび上がらせることで、コントラストによっててこの煌めきを際立たせる。間欠的で点滅的な可視性という考え方は、絵画そのもののうちにその相関物を見出すことになる。「つねにタプローにおいてはその不在を指摘できるような何かがあります。これが知覚の場合と異なる天です。タブローに不在なのはその中心野、つまり、視覚のなかで眼の判別的な能力が最大限にはたらく領野です。(…)その結果として、またタブローが欲望と関係をもちはじめるかぎりにおいて、中心のスクリーンの場所がつねに印づけられることになります。そしてまさにそのために、タブローを前にするとき、私は実測的平面[平面図]の主体としては脱落するのです」。この中心の脱落は逆説的にも発見的にはたらく。つまり、埋合わせとして、瞬きのような周縁への落下を惹き起こすのである。思わず「私の眼差しを低く落とす」ことになる程、この落下は魅惑的である。羅漢は抒情的な調子で次のように述べる。「これら細かなタッチが、リズムを打ちながら、絵筆から雨のように降り注ぎ、やがてタブローという奇跡に到達する」と。それはあたかもダナエに降り注ぐ黄金の雨さながらの色彩の驟雨である。羅漢が引き合いに出しているセザンヌを検討してみることは興味深いだろう。カンヴァスの上には、あの「わずかな青色、わずかな白色、わずかな褐色」が、降雪のように全く即興的なリズムで置かれている。そしてこれらの色彩は、最終的に(また、デカルトの懐疑のように誇張された仕方で)、焦点化された表象ではどうしてもできなかったことを成し遂げているのである。それはまさに驚嘆すべきことだ。眼差しに内在する中心の脱落という意味での欠如が、この場合、実測的視覚の失敗という意味での欠如の埋合わせをしているのである。》
⚫︎セザンヌにかんしてはまず、解決(完結)しない焦点化という遅延(その都度現れる中心=焦点化からの脱落)があり、それゆえに決して姿を表すことのない「全体性」を希求する欲望に巻き取られて、どこまで見ても見終わらないという永久運動に導かれる、というような見方がある(決して到達しない全体性へ向けた果てのない運動)。しかしここでは、その「中心=焦点化からの脱落」という働きが、それがもつ否定生が、本来、見ることも触れることもできない「欠如」を表現する、という話になっている。
つまり、ポストモダン的な(というか、近代的な)無限後退、あるいは果てしない宙吊り状態ではなく、観ることは「欠如=主体の現れ」という終着点を持つことになる。終わりのない宙吊りではなく、遅延する「像としての解決しなさ」そのものが、それ自体で空隙となり欠如を表現している。それは(果てしない宙吊りよりは)良い。しかしここでは、その欠如が表現するものは「主体」だということになってしまう。
ここで、「像としての解決(完結)しなさ」という空隙を、それを観る者にその都度「仮想的全体像(閉じられていない全体の「予感」)」の発現を要請するもの、と考えてはどうだろうか。そこで要請されるのは全体像(完結した像)ではなく、全体(完結)への予感である。予感である限りそれは閉じられていないが、全体への予感であるので(全体・完結への指向性を持ち)、ただの断片ではない。
つまり、セザンヌを観るということは、その都度立ち上がる仮想的全体像(閉じられない全体の予感)の、絶えざる現れおなしを経験し、それによって、全体(の予感)の絶えざる組み換えと組み直しが要請される経験である、ということになるのではないか。ここでまた、終点がなくなり、果てしない運動が復活してきてしまうのだが、それは「到達できない全体性」へ向けた無限の探究(あるいは「全体の無限の引き伸ばし」)があるというのとは違う。
「閉じられない全体の予感」とは、その都度仮構される「未完成の全体」である。つまり、常に仮のもので、常に未完成である全体がその都度都度で現れている(断片から断片への移行ではない)。ただし全体とは、仮想的で未完成な、その都度使えるもので作られるブリコラージュでしかなく、それは次々に組み立てられては解体され、また組み直されていくという程度のものだ。
「全体の予感」に、そのような解体と組み直しを要請するものが空隙であり、それは表象(図と地)の外であるだけでなく、表象の舞台(基底材)の外でもある、と。