2023/03/02

●いぬのせなか座の講演記録、第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」を読み返していた(下のリンク先で800円で購入できる)。

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ここでは、山本浩貴における基本概念とも言える「主観性」「物性」「喩」、そして「空白」が、実例をあげながら丁寧に説明されている。

まず前提として、言語表現(テクスト)というものが、表現される内容だけでなく、それを表現する主体とその表現がなされた環境をめぐる情報をも、同時に喚起させるものとして捉えられる。《言語表現という形式においては、「基盤」すなわち表現主体とその周囲の環境をめぐる状況が、表現内容を把握することに常に伴うわけです》。

そして「主観性」には、通常この言葉が使われるときとは異なる意味が込められる。ある言葉(ある行為)を目に(耳に)したときに、そこに自動的に、その行為の主体である(意図や意識や感情や魂を持った)「私」の存在と、その「私」にその表現を誘発した環境をを想定することを強いられてしまうという、人間にあらかじめビルドインされている傾向(それは「呪い」とも言われる)、あるいはそれによって付与されてしまうものが、主観性と呼ばれる。表現物から遡行的に仮構される主観性、というか、「主観性が遡行的に仮構されることで表現物とされる何か」から遡行的に仮構された主観性が、「主観性」とされる。

それに対し、主に韻律や空白(空隙・ブランク)として現れる、表現物(のレイアウト)にあって「主観性」に還元できないものが「物性」と呼ばれる。韻律やブランクなどの、特定のイメージを持たないが、(主観性とは別のところで)表現をいわば形式的に規定しているものに「物」という位置が与えられる。これはとてもよく練られた概念で、「メディウム/支持体」というような概念で考えられてきたものに再考を促すのではないかと思われる。

《私たちは、今回の前半で、主観性に還元できないレイアウトの操作をめぐる法則を、「物性(Obiectivity)」と呼ぶことにしました。それは、主観性にうまく還元されれば「環境」としてあらわれる。ゆえに、物性が物性として特に露出するのは、文がほつれたり併置されたりするところ、つまり文の外においてである。この「外」こそが、空白なのでした。》

これは、表現とその外部(過剰や残余)というわかりやすい話ではなく、表現の外に空白(空隙)としてあるものこそが「形」として(というか、「形」を決める要因として)表現を規定しているという話だ。やや強引にぼくの言い方に引きつけるなら、表現が途切れたところに(表現が途切れることによって)あらわれる(あるいは潜在する)空隙こそが「形」を定め、表現(内容)を規定していて、その規定(形式)が表現を物質的に下支えしている、とも言えるのではないか。

(自由詩における「物性」として、詩の支持体はリズムであり、詩のリズムは固有値を作り出すことができ、つまり、詩は自分自身を保存する支持体を自分自身で生成できるのだ、という、佐藤雄一の議論を思い出した。)

(これはぼくの意見だが、この「空白」が、「余白」ではなくて「間隙・空隙」だということが重要だと思う。あと、この「外」は、額縁、あるいはフレーム外を意味するだけでなく、「零記号の辞」や「無音の拍」といった、(一文や一句という)フレームの内部にあるブランクも含まれるので、パレルゴンという概念とも微妙に違うということも重要だと思う。文-文章は穴だらけで、空白はいたる所にあり、故に空白の作用は何重にも折り重なる。たとえばキャンバス地の露出した部分を残す晩年のセザンヌの絵においては、連ねられた一塊のタッチ群ごとが、それぞれの空白をもち、タッチ群の数だけ、異なる空白が重ねられる、というようなイメージを、ぼくはもった。)

そして「喩」。まずは、吉本隆明による「短歌的喩」が語られる。たとえば、「灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ」(岡井隆)という短歌において、上の句「灰黄の枝をひろぐる林みゆ」と下の句「亡びんとする愛恋ひとつ」とでは、特に関連のない別のことが語られている。関連のない二つのことがら(像)が、5・7・5・7・7という韻律(物性)を持つ短歌という強い形式によって、併置しても統一性が保たれ、二つの像が結びつけられ、互いが互いの比喩として作用する。その二つの像の相互比喩の成立によって生まれる表現の質が、この歌の「内容」であり、それが歌を詠んだ人の「主観性」を喚起させる。

ここで重要なのは、「ゴムまりみたいな男の子」という通常の比喩においても、「男の子」という実在するものが「ゴムまり」に例えられるという捉え方ではなく、実在するのは「ゴムまりみたいな男の子」という表現であり、そこでは「ゴムまり」と「男の子」とのむすびつきによって相互に相互を比喩し合っていて、その相互比喩によって立ち上がる表現の質が、それを発語した人の主観性を立ち上げる(主観性が立ち上がることで比喩が成立する)と考えられているところだ。

そのようにして、主観性を立ち上げる(あるいは、そこに主観性が付与・仮構される)ところの「表現された質」が「喩」と呼ばれる。《喩とは「主観性」の質である》。

話の前提として、ある文を読むことは、その表現内容だけでなく、それを表現している主体(主観性)と、その主体が置かれている環境までもを受け取ることだとされていた。そこで、二つの異なる文(像)を比喩として重ねる時、たとえばその一方が「昨日のわたし」が発したもので、もう一方が「十年前のあなた」が発したものであるとする。その二つの文(像)が、物性(たとえば短歌の上の句と下の句の間の「空白」)の作用によって重ねられたとき、その空白の場所には、二つの異なる主観性、二つの異なる環境が重ねられていることになる。逆から言えば、二つの主観性と二つの環境を「空白」の作用(物性)によって重ねることができるということだ。

このとき、いわば無理を強いられた「空白」は、何かしらのほつれを示す。それが《物性の露呈》と呼ばれるものだろう。しかし、空白は空白なので、それ自身は何も語らない。空白のほつれ(物性の露呈)は、二つの文(像)の併置がもたらす「喩」の質に波及するはずだ。そこでもたらされる、新たな・奇妙な・強い「喩」の質の生成が、《主観性の蠢き》と言われる。

《〈「物性」の露呈〉=空白=〈「主観性」の蠢き〉は、すなわち強力な比喩を立ち上げる、と。空白は強力な比喩としてある。》

(これはちょっと「虚の透明性」に似ている。《文法によって単位づけられる「主観性(Subjectivity)」たちが、複数の文、または「物性(Objectivity)」によって断片化したかたちでレイアウトされたとき、その衝突を文の外で調停し一つに束ねるものとして立ち上げられるのが「私(Subject)」である》。)

そしてこの「空白」にかんする議論は、ストラザーンの『部分的つながり』とも呼応するように思われる。