2023/03/03

●昨日からの続き。いぬのせなか座の講演記録、第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」について。

実は、昨日の日記は中途半端なところで切れている。短歌を例として挙げながら、相容れない「主観性(Subjectivity)」どうしが衝突するときに、それを調停し、束ねるものとして(要請され)立ち上げられるのが「私(Subject)」であることが示されるのだが、その後、続いて、俳句を例として、(「物性(Objectivity)」に対する)「物(Object)」という概念が示される。昨日の日記では「物」については全く触れていなかった。

この四つの概念は、文の内容のレベルにあった「主観性」が、レイアウトのレベル(空白)にあるものとしての「私」として見出され、レイアウトのレベルにあった「物性」が、文の内容のレベルにあるものとしての「物」として見出されるという形で、がっしり組まれた「四つ組み」の概念としてあるので、「物」という概念だけ抜けているのはとても座りが悪い。

《「物性」が露出する場所によって「私(Subject)」が編まれるわけですから。逆に、「主観性」がその内部でエラーを起こした時、そのエラーを指すものとして「物(Object)」が現れるのです。」》

「物」という概念について要約して書くことはできなくはないとしても、昨日の時点では、ここはもう一度自分なりに咀嚼する必要があると思ったので、中途半端なところで切ったのだった。

「物」とは、文(表現)の外にあると想定される表現主体の座が空(から)になり、その結果「表現主体」が文の内部にある素材の位置に立ち上がってしまうという、主観性のエラーのことを指す。文の外にある(と想定される)はずのもの(表現主体)が、文の内側(表現された素材)に繰り込まれてしまうこと。《まるで、向こう側、あそこに私がいる、というような状態……》。

《短歌の場合は、上句(577)と下句(77)というふたつの文のあいだに生じる、文の外としての空白が、歌全体の折り目となってまんなかで歌をぱきっと折り、上句と下句を重ねて鏡像関係を作り出すのだけれども、俳句の場合は、一句=一文において、前半が後半へ、後半が前半へ、というようにして、相互に句=文全体を満たす「主観性」の主導権を奪い合う状態が起こる、と言えるかもしれません。そこでは、文と文の衝突というよりは、文内部での果てしなき相互循環によって、外部不在が「主観性」のエラーとして生じるのです。》

たとえば、「春雨や降るともしらず牛の目に」(小西来山)という句において、中句「降るともしらず」の「しらず」の主体は「春雨」にあるのか「牛」にあるのか。春雨自身が、自らが降っているとも知らずに牛の目に降っているのか、「牛」が「春雨が降るとも知らず」に雨の中に佇み、ただ「牛の目」に雨粒が映っている(落ちている)のか。この、「主観性」の座をめぐる終わりのない循環(《互いが互いの主体となり、環境となる》)に、句の外にいる表現主体を探そうとする読み手のリソースは《消耗》させられ《喰い尽く》され、表現の外の主体が《用意される余地を失わせる》。その結果として《文のなかに隠れていたはずの表現主体が、語のレベルまで押し出されてしまう》。

この句はとても面白くて、春雨自身が自分が降っていることを知らないとしても、雨に打たれているにもかかわらず「打たれている牛」がそれを知らないとしても、その「しらず」のありようはどちらにしてもかなり奇妙で、しかしその二重化によって生まれる「喩」の質には味わい深いものがある。この句における「しらず」の効果の大きさを感じる。ただ、「知らない者」は「知らないこと」そのものを「知らない」はずで、だから「しらず」と断定、あるいは推測する主体が句の外にいることをぼくはどうしても感じてしまう。なので、この部分の説明では納得し切れない感じが残ってしまった。

「鳥堕ちて青野に伏せり重き脳」(安井浩司)。ぼくには、こちらの句の例の方に説得力を感じた。

《《鳥》が堕ちて死に、《脳》が出ている。そう考えることができますが、同時に、《重き脳》がそれ自体で、表現主体性を持ってしまっているようにも感じられる。また、《鳥》を落下させた原因として《重き脳》があるようにも感じられる。《鳥》のなかにあるはずの《脳》が自律して《鳥》を落下させる。《脳》と《鳥》が分裂する。そしてそれらを支えるところの《青野》は、《鳥》の死骸と潰れた《脳》が共に《伏せる》場所としてある》。

仮に、自らの脳の重さが鳥を墜落させたと考えるとして(ここで「重さ」とは重量なのかそれ以外の何かなのか?)、「鳥」とその「重き脳」を分裂させれば、「重き脳」が「鳥」を落とした主体と言えるが、「鳥」が「自らの脳の重さ」によって墜落したとすれば、「鳥」を落とした主体は「鳥自身」となる。ここに《互いが互いの主体となり、環境となる》循環が見出される(「鳥 ⊃ 脳」と「脳 ⊃ 鳥」の循環)。そして、自らの重さが鳥(≒自分)を墜落させた、青野に露出したその「重き脳」そのものが、その状態を想起=表現している(そのような状態を想起=表現するが故に「重き」脳なのか?)。そう考えると、句の外に想定されるはずの「表現主体」が、句の中にある「語(素材)」の中に繰り込まれてしまっていると考えられる。

《物性によってほつれた状態で並べられた主観性が、空白を起こしてそれを経由しながら、素材を起点にして相互に相手を抱え込もうとする動きを見せるときに想定される、表現主体が空(から)となり素材の側へ押し出された状態を、「物(Object)」とする。》