2019-12-23

●引用、メモ。「対象エピソードの主体」と「メタエピソードの主体」と「メタエピソードを想起する主体」の一致と不一致について(空間と因果)。

「なぜ「私」は、同一の「私」でいられるのだろう?」(青山拓央)講談社現代新書より

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69136

エピソード記憶の重要な特性は、いつ、どこで、なにをしたかに関わっていることだとよく言われるが、ここで主語(「だれ」)が省かれているのはなぜか。エピソード記憶の対象は、通常、その記憶の所有者自身が経験したエピソードであり、それゆえ、主語である「私」をいちいち明示する必要はない》

《だが、そこで言う「私」とは、あるエピソードを認識した主体としての「私」であって、そのエピソードにおける中心的な行為の主体では必ずしもない。

たとえば私は、十数年前、奥田民生さんのコンサートに井上陽水さんが乱入して、『荒城の月』を独唱し、すぐ去って行ったのを覚えているが、このエピソードの中心的な行為の主体は陽水氏である。

他方、私がその乱入を目にしたことに焦点を当てるなら、その主体は私であるが、こちらは、あるエピソードを認識した者としての主体だ。》

《「メタ」という表現を使用して、同じことをこう言い換えてみよう。〈陽水氏の乱入〉というあのエピソードの主体は陽水氏であるが、私がそれを見たというメタエピソードの主体は私である、と。以下の議論では、メタエピソードの参照先であるエピソードを(いまの例では〈陽水氏の乱入〉を)「対象エピソード」と呼ぶことにする。》

《メタエピソードの主体はつねに、エピソード記憶の所有者である「私」だが、先述の通り、対象エピソードの主体がその「私」であるとは限らない。》

《これらのエピソードを思い出す際に私は、メタエピソードの主体である私が、それを想起している私と、同一の主体であることも認識している》。

《当たり前のようで、これは不思議なことである。対象エピソードの主体(…)と異なり、メタエピソードの主体(私)は、その特性が──たとえば日本人の男性であることが──エピソードの内容に普通は反映されていない。事件現場を撮影しているビデオカメラが、普通はそのカメラ自身を撮影してはいないように。》

《現状、あるエピソード記憶の想起は、そのエピソードを「記録」した(認識して覚えた)脳自身によってしかなされない。》

エピソード記憶の大半(定義によっては、そのすべて)において、対象エピソードの主体、メタエピソードの主体、そしてそれらを想起する主体は、いずれも同一の「私」である。》

《それは、ヒトの身体が因果関係の結節点だからであり、身体のこのような在り方は論理的には偶然である。》

《それゆえ、その空間領域は、ある人物がもつさまざまな機能の因果的な結節点となっており、むしろ、そうした結節点であることが、その空間領域をある一個人の領域とする。》

《SF的でない普段の世界にて、「私」がやっていることを「私」がしばしば認識しているのは、前者の「私」と後者の「私」がたまたま近くにいるからだ(たとえば手と目が近くに在るために)。もちろん、ここで言う「たまたま」とは論理的な意味合いのものである。》

《もし、ある脳(の一部)で記録したエピソードが──クラウドと電子端末との関係のように──他の場所に在る複数の脳(の一部)で思い出せるようになったなら、その一致は保証されない。》

《このとき、ある人物を一個人たらしめているのは、空間領域のまとまりではなく、因果関係のまとまりだ。世界中に散在する諸物が1人の「私」を構成するのは、因果的な1つのネットワークによる。》

《空間領域のまとまりの消失は、エピソード記憶の土台を揺り動かす。言い換えるなら、因果関係のまとまりのみによって「私」が構成されるとき、エピソード記憶の概念は大きく変質するに違いない。》