●『しんせかい』(山下澄人)での言葉の使われ方は、けっこう『ビリジアン』(柴崎友香)に似ている感じがする。記憶という、矛盾する出来事をも並立的に内包する潜在的な領域から、言葉の「断言する力」によって、顕在的なものとして、世界を「確定してゆく」感じが。それは、強弁であり、口から出まかせであるかもしれないのだけど、「そのように言われた(書かれた)」ことによって、(言われたその都度)世界はそのようなものになる。
それはある意味、世界を貧しくするということでもあるのだけど、確定された結果、確定された後の世界を示すことが重要であるというより、言葉が世界を確定するというその動き、未確定な領域から確定された領域へと、何かが境を越え出るというその力こそが、そこに記述されている。それによって、あらゆる瞬間がその都度「この世界の創造」の瞬間であるかのような状態が生じているのではないか。
(つまりそれは、既にあるものの描写ではなく、記憶→想起という動きだ、ということなのだけど、想起が言語によってさらに限定され、さらに強く確定的になる。その強い限定性が、「確定」が「今ここで生まれた」「生まれつつある」「生まれつづける」「生まれ直されつづける」感じに繋がるのではないか。)