●「E!」の、松野×上浦対談についてもうちょっと。
「抽象化」の話で、例として大腸菌が出てくることは重要なのではないかと思った。例えば、これが人の話になると、対象の同一性を構成するのは脳のこの部分のこのようなシステムで、自分自身の同一性を感じているのはこの部分で…、という風な脳の機能の話に還元されてしまいがちだけど、大腸菌に、脳のような機能を分化した複雑な情報処理をするシステムが備わっているとは思えない。そうであるにもかかわらず、ブドウ糖ならブドウ糖という対象を記号化(抽象化)することでそれに同一性を付与しつつ、同時に、それを取り込み排泄することで常に変化しつづける自分を同一性をもった自分として「抽象化」するという作用が働いてしまっている。さらには、それまで食物とはみなされなかった乳糖を、新たに食物として抽象化(記号化)するということまで行う。このような、自分の外にある不確定なものを対象として抽象化し、変化する自分からも同一性を抽象化するという「抽象化する作用」は、一体、世界のどこから発生して(湧いて出て)きているというのだろうか、という謎が浮上せざるを得なくなることがはっきりする。対談の後半では、それが認識論に対する存在論と言い換えられている。つまり、「抽象化する」ことそのものは認識論的な行為だけど、「抽象化する作用」が「ある(あり得る、実際にあってしまう)」という事実は存在論的にしか考えられない、ということだと思う。
(だから、「わたしの実存」のようなものをこごは、意識でも記憶でも無意識でも身体でもなく、「抽象化の作動」というところに見ているのだと思われる。)
取り入れと排泄によって常に交代し続ける「個」としてのわたし(わたし1、流動する、わたしの構成要素のその都度の集合、その都度で成立しているシステム)を、同一性を保つ「類」としてのわたし(わたし2、システムや関数としては変化したとしても、それらの間に「わたし」という連続性が保たれていること、ここには、将来取り込むことになるかもしれない外部の「対象」も可能性として含まれるだろうし、既に排出したものも履歴として含まれるかもしれない)として「みなす」ことのできる、クラスをまたいだ統合を可能にする抽象化作用(わたし3、わたしの魂)がある、といえるとする。このときの、「わたし3」こそが、存在論的な「わたし」であり、それが、因果と予期とのズレを収束させ、あるいは、演繹と帰納とのズレを統合して、境界条件が変化しつづける中でも運動の持続を可能にするのだ、ということだろうと思う。「内部観測」とは、この「わたし3」を問題にするということ、あるいは、「わたし3」の作動(運動)を通して世界を見る(記述する)というとなのではないか(「わたし3」こそが「内部観測者」ということではないか)。それこそが生命(あるいは、原-生命、プロトバイオ?)である、ということになる、のだろうか。
そこで例えば、下の図のように、内部観測(わたし3)を、分子と分母とを媒介する横棒のようなものとしてイメージすることも出来るように思う。




しかしだとすれば、そのような「わたし3」の次元は、記号操作としての理論の水準によってでは決して捉えられないものだということになってしまうのではないかとも思った(その近似値、あるいはイラストレーションとして、例えば「天気―天気予報システム」を挙げることは出来るとしても、あるいは、より適切なイラストレーション=モデルを新たに「創出する」という行為が「記号接地」であるかもしれないけど)。それはただパフォーマティブに、境界条件がかわりつづけるなかでも「わたし(生物)」が行為や運動を成すことが出来るという事実を示すこと、あるいは、その場その場の状況に応じてその都度「記号接地」を行うことが出来るということを示すこと(あるいは、それらに「失敗する」ことも出来るということを示すこと)、によってしか表現できないということになるのではないか。要するに、生命が活動しているということを示すことによってしか示せないのではないか、と。
(とはいえ、「理論」に関して上浦基は次のようにも言っている。≪自分を取り囲む、よくわからない世界のできごとや他者の言葉を、自分の分かる言葉に置き直すという作業を通して、それらのできごとを消化していく。いわば消化を助ける料理法として理論というのを考えるわけです≫。これは、「この日記」がやっていることだとも言える。この日記は「理論」ではないけど。)
だがここで重要になってくる(面白くなってくる)のは、現代では、このような抽象化作用を「人工的」に創り出すことは可能なのかという問題が、(たんなる思考実験としてではなく)現実的なリアリティのある問題として絡んでくるところではないか。つまり、ロボットやAIに「抽象化作用」や「記号接地」を(つまり「魂」を?)実装することは可能なのか、ということ。そして、それは具体的にはどういうことなのか、と。それは言ってみれば、人工的に「生命(存在)」を生み出せるのか、という問いになるのではないか。あるいは、どの程度、どのような方向でなら、生命の(魂の)「近似値」を創り出せるのか、と。
「理論」というものが記号操作だけで出来ているとして、だけど、「理論を生み出すという行為」ならば、それは記号接地としてあるのだろう。あるいは、理論が記号操作だとして、ロボットやAIを実現しようとするのは、工学的な問題であり、実践的(制作的)であることによって、記号接地が絡まざるを得ないと言えるのかも。
ただ、そこで制作されようとしているのが「魂」なのだとすれば、それは錬金術のようなものだと否定することもできる。もしかするとそれ(魂を制作すること)は、人類が今まで何度もトライしては失敗を繰り返してきたことで、そんなものには近寄らないことが正解なのかもしれない。だとしても、いや、それでも……、とか、どうしても思ってしまうのだけど。
(最後の方は、松野×上浦対談とはあまり関係のない話になってしまった。)
●この対談で語られている(というか、ぼくがここから勝手に読み取った)範囲での内部観測の話と、西川アサキの「魂と体、脳」モデルとを比較してみると、わたし1が、わたしを構成する多数のエージェントたちのネットワークとその変化で、わたし2が、そのなかから自然に生成する「中枢」にあたり、わたし3が、「観測者の観測」という形の相互作動によって中枢を強化する二人称的なシステムということになるのではないか。ここでは「魂」を必要とせずシステムとしてすべて語られる(それと、外部からの取り入れ、外部への排泄がない)のだけど、西川モデルでは、「魂」は個々のエージェントの中に既にあるとされている感じ(モナドジー)なので、「魂」が問題にされていないわけではないと思う。