●「E!」(http://www.eureka-project.jp/#!projects/c10d6)の、松野×上浦対談をさらに読んでいて、さっそく、昨日の日記の図が間違っていることに気付いた。でも、あせって図を訂正するより、もう一度読み直して、考えを組み立てなおしてみる。
●まず、「記号操作」と「記号接地」との違い、が重要とされる。記号操作とは、世界から抽象化を介して既に抽出され、成立している「記号」を操作することであり、例えば「理論」というのは基本的に記号操作だけで出来ている。これに関しては、文法を理解している限り、誰にとっても理解可能なものとされる。対して「記号接地」とは、世界のなかから、未だ表現が与えられていない未分化なものを掴み出し、それに表現を与えることだとされる。ゲシュタルト化能力のようなものだと考えてよいのだろうか。これを行うのが生物有機体である。この記号接地ということを問わなければ、世界はアルゴリズムに還元できるだろう。(ウィトゲンシュタインの「写像形式そのものは写像されない」を想起させる、例えば、AIは「記号接地」の能力をどのようにしたら持ち得るのか?)
●記号接地は、例えばバクテリアでも行う。大腸菌は通常はブドウ糖を好んで食する(これを生物学者は「化学誘引物質」と呼ぶ)。そこで、大腸菌ブドウ糖よりも消化しづらい乳糖のみの培地に移植してみる。当初、まったく増殖が見られないのだが、しばらくすると、特定の分離株に増殖がみられるようになる。つまりここで大腸菌は、世界のなかから新たな「化学誘引物質」を「抽象化」したといえる(とはいえ、ブドウ糖や乳糖を「化学誘引物質」と呼ぶのは生物学者であって、大腸菌自身ではない)。大腸菌は、食物ではなかったもの(食物とみなさなかったもの)を、食物として記号化した(食物とみなすようなった)。この、抽象化の遂行(〜とみなすようになる)こそが「記号接地」である、と。
●この時、大腸菌にとって、以前は世界と一体となって未分化だったある特定の物質(乳糖)に「食べ物」であるという同一性が(大腸菌自身によって)付与された(世界の地のなかから「乳糖」が「食べ物」としてゲシュタルト化された、と言い換えてもいいのだろうか)。つまりここで、乳糖という物質(対象)は、それを食物とみなす大腸菌という「観測者」によって(類的な)同一性が保証されることになる。大腸菌によって「食物」とカテゴリー化されることで乳糖は乳糖としての同一性を得るのであり、乳糖それ自体は、自分自身を自力で同一化しない(「乳糖」というカテゴリーは「生物学者」によるものであり、大腸菌によるものではないが)。
例えば、素粒子を観測する物理学者を考えてみる。新たな素粒子の発見とは、その素粒子の類的同一性の確定だ。さらには、同じクラスに属する個々の素粒子の、個としての持続性(同一性)も必要となる。ここで、ある個としての素粒子の同一性を保証するのは「慣性」であるしかない。そして、ある素粒子から「慣性」を「抽象する」のは、大型加速器(観測装置)と接合された「物理学者(観測者)」による観測である。つまり、世界のなかに埋め込まれた(それまでは地と未分化であった)「ある素粒子」の同一性(慣性)は、それを観測する物理学者(+物理学の理論体系)による抽象化によってはじめて保証される(素粒子自身は自分の同一性を主張しない)。
●この時、観測者による抽象によって抽出され、記号化された経験対象(大腸菌にとっての乳糖)は、あくまで「類」としてのものである。大腸菌にとって乳糖は培地のなかにある「食物一般」として認識されるのであって、特定の「この乳糖」だけを特別に記号化したのでは、それを食べてしまった後ではその「記号」が役に立たなくなる。つまり記号化(抽象化)とは、それ自体(個)としては常に交代し、流動するものたちを束ね、類として一般化し、その類に対して類的同一性を付与するということになる。下の図のように書けるのではないか。



●個物的(因果的)にみれば、常に移り変わり変化しつづける「物(個)」に、「類」としての同一性を付与するのは観測者による抽象化であった。しかし、自分自身の同一性を自分自身によって成立させる(観測する)「物」が世界のなかには存在する。それが、有機的生物である。それはつまり、自分自身の同一性を自分自身で「抽象化する」もの、ということになる。
仮に、物理において慣性を保証する時間を、カント・ニュートン的な、均質で自律した時間(先験的な形式としての時間)だとすると、有機的生命における時間はそれとは異なるものとなる。それは一方で、常に移り変わり変化するものの時間(流れ去る時間)であると同時に、流れ去る個を可能にするその基体、「わたし」という「類的同一性」を可能とする時間(常に在る時間)でもある。つまり、「流れ去る時間(個)が常に在る(類)」という二重化された時間となろう。
大腸菌は、外部にあるブドウ糖を内部に取り込み、内部にあった老廃物を外部に排出するという形で、自身の組成を常に交代・変化させ、さらに、培地にブドウ糖が無いならば、乳糖を取り入れるように自身を変化させ(記号接地を行い)つつも、大腸菌という同一性を保ち続ける(そして、それを通じて、「ブドウ糖」や「乳糖」に類的同一性を付与しつづける)。この時、有機的生物は、常に交代し続ける個の流動性を、類的な同一性と「みなす」という「抽象化」を、自分自身に対して行っているとも言える。
これを、わたしⅠ(交代し続ける「個」としての複数のわたしたち)を、わたしⅡ(持続し同一性を保つ類的なわたし)としてみなす、わたしⅢ(個と類を結びつける自己言及的抽象化機能)がある、と言っていいのだろうか。



●だから、昨日の日記の図にある「類的同一性」と「個的同一性」は、どちらも下の図のように二重化された形に書き直さなくてはならないことになる(これもまた、暫定的なものではあるけど)。