⚫︎嘘つきは、人のことを「嘘つき」と言って非難(攻撃)する。嘘つきの目的は、まずは信頼性を破壊することだ。それは、個別のことがらの真偽における信頼性の問題というよりも、様々な個別のことがらの真偽を判断するための、判断基準となるものの信頼性の破壊ということだ。個別の判断ではなく(個別の判断でその都度迷ったり、間違ったりするのは当然であり、普通のことだ)、メタ判断としてのコモンセンスを破壊する。そうしておいて、メタ判断(基準)を失って混乱する人に、嘘つきの都合により用意された「隠された真実」を発見させるように、その道筋へと誘導する。人は、嘘つきによって用意された道筋を(それと知らないうちに)通って、隠された真実を「自らの手」で発見する。詐欺やカルトの常套手段だが、有効な免疫は見つかっていない。
(生活苦や社会的不安が、嘘つきの最大の協力者となるだろう。)
⚫︎あらゆる場面で「半信半疑」という態度が難しくなっているのかもしれないと思う。たとえばオカルトは、半信半疑という距離感でなければ面白くない。全面的に信じていたらヤバいや奴だし、かといってまったく信じていなければ面白くない(そもそも無関心ということになる)。
⚫︎あらゆることが半信半疑である。この件にかんしては、七分・三分くらいの割合で信頼性が高いと判断できるが、あの件にかんしては八分・二分くらいの割合で疑わしいと判断せざるを得ない。そして、こちらの件については、六分・四分くらいの割合だと思われるので、しばらく距離をとりつつ判断を保留する。あらゆる事柄を、個別に、半信半疑の度合いとしてみる。そしてその割合は、状況により変化する。このようなものが常識的な判断なのではないか。
とはいえ、このような態度は、どこか別のところで、十分に信頼できると信じられる何かしらの根拠(信仰のようなもの)が確保してあることで可能になるのかもしれないとも思う。だとすれば、「信仰」とは盲信のことではなく、(信者でもアンチでもない)半信半疑を維持するために必要な(無意識のレベルで働く)前提ということになる。
(盲信は信仰ではない、ということか。)
⚫︎嘘つきは、この「信仰」の部分を破壊するような攻撃を仕掛けてくる。嘘つきの手法に対抗するために(「敵」の手の内を知るために)、みんなで真剣に『我が闘争』を読む必要があるのではないか(読んでいないので当てずっぽうだが)。
(嘘つきの言葉は初めから嘘なので、その矛盾や真偽はまるで問題にならない。信頼性を破壊できさえすればそれでいい。しかし「嘘つきにならないように努めようとする人」にとっては、小さな矛盾や、100の事実のうちの一つの間違い、あるいは、普段は誠実な人が思わずついてしまった一つの嘘、誰にでも一つくらいはある「弱み(疾しさ)」などが、信頼性を揺るがすセキュリティホールになってしまう。嘘つきはここを突いて「お前は嘘つきだ」と言ってくる。嘘つきはいつも嘘をついているから「普段は嘘をつかない人が追い詰められて思わずついてしまった嘘」のようなものにも敏感なのだと思われる。)
(欺瞞がゼロであるような人などいない、という脆弱性を、すべてが欺瞞でできている嘘つきが突いてくる。)