●九十年代のミンコフスキー的な人工知能は、まずある目的があり、その目的を実行するために必要な知識や行程を細かく分解し、それらを体系的にインプットして、目的とそれを達成する為の行為をひも付けしようとするものだったと思われる。たとえば、患者の病名を特定するという目的があり、その為に必要な知識やスキルを分解して、ひたすら入力していくことで、判断するという行為の組立を可能にし、その目的を果たそうとする。
そこで問題になったのが「フレーム問題」だろう。つまり、何かしらの行為を行うために世界の有り様を読みとる時に、どの程度の深さ、どの程度の範囲で読み込めばいいのかということは、各々の状況によって異なるから、知識やスキルの解像度をどこまで上げればよいのか、その状況をどの程度までの深さと広さで考慮すればいいのかという「メタ情報」が必要となり、しかしそのメタ情報を得るためには、さらに上位のメタ・メタ情報が必要となり……、ということになって、どこまでいっても判断を確定できず、行為を組み立てられなくなる。
また、別のアプローチとして複雑系的なものもあり得た。こちらは「目的」というものをひとまず置いておいて、たとえば簡単な細胞のモデルをつくり、それが作動する単純な規則をつくって、コンピュータによるシミュレーションを使って動かしてみる。つまり、目的よりも構成要素(ノード)とその関係を先に考える。すると、非常に単純な規則から、生命的というしかない複雑な動きが生成されてくる。
これにより、たとえば鳥の群の挙動のような非常に複雑な運動が、とても単純な相互予期の規則によってできあがっているということがわかるようになった。同様に、様々な植物や生物、森林や海流などといった地球環境のような、多種多様なシステムが、比較的単純な系とその絡まり合いから生まれていることがわかるようになった。複雑系からカオス理論へ、みたいな。
しかしこの、比較的単純なシステムから複雑な挙動の生成や消滅が起こるという事実(関係性)は、生命というものの必要条件ではあっても、十分条件とはいえないように(何故か)感じられる。自分の同一性を、世界(環境)のなかから一つの記号として抽象し、そこにある程度の自律性を保証しているものが、当のその物質それ自身であるという性質が、生命が生命と言いえるものである重要な要素としてあると思われる(これはある意味、直観的な判断であり、その根拠は何かと問われると困ってしまうのだが)。つまり、生命には(おそらくもっとも単純な単細胞生物にさえ)自己言及性があり、複雑系的なシミュレーションでは、このような自己言及性(求心性)をとらえられないように思われる(あるいは、なぜ自己言及性---個別性---が「生まれてしまうのか」を説明できない)、という問題があったのではないか。つまり、シミュレーションを見て、「まるで生命としか思えない動きだ」と感じる外部観測者がいて(既に成立している別の生命の視点があって)、はじめて成立する。でも、生命は、誰にも観られていなくても自分自身に対して既に生命なのではないか、と。
(たとえば、ハーマンの言う、どのような関係からも脱去する「実在的対象」とは、いわば純粋な自己言及性そのものと言い換えられると思う。)
ディープラーニング以前の、人工知能研究の長い冬の時代は、この二つの問題、フレーム問題と自己言及性の問題に常に突き当たってしまうところからきていたといえるのではないか。そして、ハーマン的に言い換えれば、フレーム問題とは下方解体の問題(還元主義的、経験論的問題)であり、複雑系が自己言及性を捉えられない問題とは上方解体の問題(関係主義的問題)だと言い換えられるように思う。生物にはどちらにも解体されない自己言及性がある(という直観がどうしてもある)。物質が、世界のなかから自分で自分自身を記号化(抽象化)して個別化しようとする働きとしての自己言及。
ここで自己言及とは、自己反省や自己意識のようなもののこと(だけ)ではない。自己反省(あるいはコギト)は、ハーマン的に言えば、実在的対象としての自分が、感覚的対象(あるいは感覚的性質)としての自分を志向しているということにすぎない。そうではなく、ある対象が実在的対象として在るという事実そのものを、自己言及性と考えることができるのではないか。世界のなかから自己を記号化=抽象化=個別化することで自らの同一性を持続しているという、そのことが既に自己言及性であり、そしてそれが内部観測(少なくとも、内部観測を可能にするある基底)ということになるのではないか。実在的対象は、誰にも読めない穴のような記号ということではなく---それだと対象aということになってしまうし、再び深層=全体となってしまうから---記号化する、抽象化する、「一」化するという、その「個別的な働き」が起こっている---その記号化作用がなぜか分からないが持続している---という「こと」そのものが自己言及性だ、といえるのではないか。
●ただし、本当に、ハーマンの言うように自己言及性そのもの(実在的対象)があらゆる関係から途切れたところで持続し得るのかどうかは分からない。たとえば、ハーマンへの批判の一つとして、『魂と体、脳』(西川アサキ)があり得る。仮に実在的対象≒中枢として、中枢が生成(創発)したとしても、別の中枢との関係(観測者の観測)がないと安定しないというシミュレーションの結果が書かれている。
でも、『魂と体、脳』のシミュレーションは、決して通分出来ない(それを確かめられない)エージェント同士の(仮の)対話が基本だから、設定がけっこうハーマン的とも言える。