●『基礎情報学』(西垣通)では、(狭義の)「情報」はヒトの心のなかにのみあるということになっている。ここでの「ヒト」の捉え方がとても面白いのでちょっとまとめておく(ぼくの興味の方向に即して形をかえてあるので、必ずしも書かれていることの正確なまとめではないです)。
まず、オートポイエティック・システムとは、自己産出プロセスの抽象的なネットワークのことであり、空間内に出現する具体物のことではない。例えば細胞は、「外から観察する」限り、上位階層にある器官から拘束を受けているし、物質やエネルギーの入力や出力がある。つまり他律的で入出力のあるアロボイエティック・システムと言える。しかしそれを内側からの観点でみれば、「構成素が構成素を産出する産出プロセスのネットワーク」、つまり、外部と内部の区別がなく、自らのパターンに基づいて自らというパターンを再生成しつづけるネットワークといえるのでオートポイエティックシステムだ(オートポイエティック・システムには、自律性、自己同一性、境界の自己決定性、入出力の不在という四つの特徴がある)。オートポイエティック・システムにおいて「自己」はただ(自己産出という)「行為」によって与えられ、「行為」において持続され、「行為」によって自他が区切られる。それはつまり、ある「パターン」が行為を通じて自分自身の「パターン」を再帰的につくり直しつづけるシステムということであり、生命とはそのようなものであるというのがオートポイエーシス論だといえる。広義の「情報(原-情報)」とは、生命が自己産出する過程でつくりだされるパターンのことだとされる。
そして、そのような自律性をもつオートポイエティック・システムである「一つ」の生命体を「生命的単位体」と呼ぶ。例えば、一人の人間の身体は一つの生命的単位体だが、その人間を構成する細胞の一つ一つもまた個々に生命的単位体だと言える。繰り返すが、この生命的単位体は内側からみられた身体(産出プロセスのネットワーク)であり、外側から観察される客観的身体とは異なる。
しかし、ヒトにおいては、生命的単位体とは別の、もう一つのオートポイエティック・システムがカップリングされているという。「行為」を通じて自己を再産出しつづける生命的単位体とは別に、「観察」や「思考」を通じて、「観察」や「思考」を自己産出する「心的ネットワーク」がそれだ。これは生命現象の一つの飛躍であり、この観察者=心的ネットワークの出現によって、狭義の「情報」がこの地球上に生まれた、とする。これら二つのオートポイエティック・システムのカップリング(相互作用)によって「ヒト」が生まれる。生命的単位体としての「(行為する)わたし」を、「心的システム」としての「(観察する)わたし」が観察するという「自己再帰システム」が「ヒト」なのだ、と。
この時、生命的単位体としての「わたし」は、それ自体ではオートポイエティック・システムであり、つまり自分自身(構成素)を再産出しつづけるプロセスであるのだが、「心的ネットワークによって観察された生命的単位体」は、自律システムへと後退する。
(自律システムとはここでは、内的にみられたオートポイエティック・システムとは異なり、観察者によって観察されたシステムのことであり、観察者から見て、システムが継続的単位体として存続し、かつ構成的閉鎖系であるように認識されるシステムのこと。つまり、オートポイエティック・システムは「再帰的プロセスによる構成素の《産出》」によって内的に定義されるのに対し、自律システムは「再帰的なプロセスによる構成素の《関連付け》」によって外的に定義される。ただしここでは、観察者の「わたし」は自分自身として行為者の「わたし」をみているのだから、ズレはあるが、外的な観点ともいえない。)
つまりここで「ヒト」の「わたし」は、「心的ネットワーク(観察者)としてのわたし」「観察者としてのわたしによって内的に観察された行為者としてのわたし」「観察者としてのわたしから外的に観察された客観的物質としての身体(わたし)」と三重化されている。さらに重要なのは、二つ目の「観察者としてのわたしによって内的に観察された行為者としてのわたし」は、それ自身(生命的単位体)としての観点からは独立したオートポイエティック・システムであり、観察者の観察とは別個にそれ自身として「行為」によって勝手に自己を再産出しつづけている(そして、生命的単位体としての個体は、免疫系、代謝系、神経系など、複数の生命的単位体の集まりでもある)。その意味では、「ヒト」は四重化されているとも言える。
(下の図を参照。)



狭義の「情報」とは、心的ネットワークによる「観察」を通じて見出されたパターンのこととされる。しかし「こころ」は閉じたものであり、なぜ、「こころ」のなかにしかない「情報」が伝達されたり、社会的に共有されたりする(かのように誤解する)ことが可能になるのか。その最も原理的な説明の部分を図にすると下のようになる(これはかなりぼくなりにアレンジしてしまっています)。




まず、ある環境のなかで活動する生命的単位体としての「わたし」が、行為のなかで行為を自己産出する過程を通じて得たパターンが「原-情報」として生まれる。それはまず、生命的単位体による世界の解釈だ。そしてそれに遅れて、心的ネットワークが「原-情報」を再・解釈することで「情報」が生じる。例えば、熱いものに触れた時、「熱い」と感じる前に手をひっこめ(行為=原-情報)、その行為に遅れて「熱い(触りつづけていると危険)」と認識する(観察=情報)。そして「熱いじゃないか」と言葉にするとする(記述)。
この過程をパースの三項図式に重ねて、原-情報(対象)、情報(解釈項)、記号(記述)と置く。
この言葉(記号)を聞いた(対象=原-情報とした)第三者(他者)は、それを「熱い」という感覚の表現と受け取るかもしれないし、そんなところに「熱いもの」を置いた人への抗議ととるかもしれないし、「熱くないと思ったら熱かった」という驚きの表現ととるかもしれない(解釈項=情報の伝達)。その解釈によって、「そんなに熱いですか」と言ったり、「それを置いたのはわたしじゃないですよ」と言ったり、「熱いに決まってるじゃないですか、気を付けてください」と言ったりする(記述=記号)。
だからここでは、情報の透明な伝達は考えられていない。「わたし」の内部でさえも、原-情報から情報への「再解釈」と、情報から記述への「変換」が意識されている。そしてそれは、「情報」が閉じられた心的システムの内部で発生するものであること、生命というシステムが基本として閉じていること、生命的な(内的で閉じられた)オートポイエティック・システムと機械的な(外的で開かれた)アロボイエティック・システムとは記述の「視点」が異なること、などが前提にされている。
生命的単位体というものが本来、自らのもつ内的パターンに基づいてパターンを生成するものであり、内部(からの刺激)と外部(からの刺激)の区別、つまり幻想と現実の区別がない(よって、入力も出力もない)閉ざされたものであるとすれば、上の図は正確ではなく、下の図のようになるのかもしれない。



そして意外なことに、客観性というのは観察者(心的システム)の観察によってはじめて生まれるものということになる。細胞は、それ自身としては閉じたオートポイエティック・システムであるが、観察者によって外から見られること(観察者の視点との相互作用=原-情報を情報へと解釈すること)によってはじめて、機械的な、環境からの入出力をもつ「開かれた」(それは上位システムから拘束された、他律的な、という意味でもあるが)アロボイエティック・システムとして「認識される」のだ。つまり、生命は観察者がいなければ永遠に閉じられている。「わたしの客観的身体」は、「わたし」という自己言及する心的システムがなければ存在を知られることがない。世界は自己言及する視点(心的ネットワーク)を必要とし、それを前提としている、かのようだ(これはぼくの感想)。