●ギャラリーαМで小林耕平展。ギャラリーへ向かう階段を下っていると下からがやがや騒がしく声がきこえてくるので、もうトークがはじまっているのだろうか、時間を間違えたかもしれないと思ったのだが、そうではなかった。こんなに落ち着かない展覧会場はないというか、こんなに作品に集中させてくれない設定はちょっと他にない、というところがまずすごい。酔っている時に喧騒のなかにいるとこんな感じかもしれない。一日中ここにいなければいけないギャラリーのスタッフはちょっと大変だなあとも思った。
「透・明・人・間」というコンセプト、「媒介となることで透明になる」というテキストの内容とは、むしろ逆で、放っておけば透明であるはずの媒介をわざわざ露呈させることで、認識と世界(対象)との間に次々に介在物というか遮蔽物を差し挟んでいって、世界をどんどん不透明にしてゆくというか、ノイズに満ちたものにしてゆくという方向性の作品だと思った。実際、六つの作品の音声が混じり合う会場では、一つ一つの作品に出ている人が何を言っているのかを聞き取ることは困難だ(故に、わざわざ「字幕」がついていて、言葉の媒介性が意識化――不透明化――されるようになっている)。さらに、壁に投影された映像の明滅が隣で投影されている映像にも干渉し、チラチラするし、音も混じり合っているので「他所」が常に気になって集中しにくい(「壁に投影する」という手法=媒介が意識化――不透明化されるとともに、「作品への集中」という作品を観る時の――透明な――通常モードが阻害され、不透明化される)。
六つの映像すべてに、作家本人、山形育弘、富樫くんと呼ばれるマイクを持つ人、が映っていて、それに加えカメラで撮影する人を含めた四人がレギュラーメンバーで、それに、作品ごとにゲストとして異なる協力者が出演している。出演者には作家によるなにかしらの問いや課題が与えられ、それを解決(?)するための(あるいはそのヒントとなる)「装置」が与えられる(装置も展示されている)。その課題を解こうとする試行錯誤が映像に収められる。
とはいえ、今回の作品の特徴は、課題とその試行錯誤の過程が作品の中心から外れているということだと思う。まず、それぞれが異なる、具体性(固有性)を帯びた場所で撮影されており、場所そのものが強く主張している。東京ドーム前、(おそらく)野毛山動物公園の猿の檻の前、佃島の突端、スカイツリーの真下、など。出される課題は、その場所と深く関係するものもあれば、あまり関係ないものもあるが、カメラの関心は、そこで試行錯誤を行う人間たちよりも、むしろその場所にあるかのようにさえ見える(背景が前景化――不透明化されている)。さらに、作品はどれも十分程度であり、通常行われている作家と山形によるデモンストレーションに比べれば時間的にとても短く、故に「問い」そのものはそれほど深くは追究されない。ある作品では、登場人物は縄跳びを跳びながら課題をこなすことが要求されているなど、時間の短さも含め、むしろ「問いを深める」ことを阻害するような仕掛けが施されている(「課題への集中」に対する抵抗――不透明化)。さらに、初対面であると思われるゲストたちとの掛け合いは、作家と山形のようにこなれたものとはならないので、その点もまた「課題への集中」に対する抵抗(不透明化)となる。遠慮や気遣いなど、微妙な空気の前景化(不透明化)。
(縄跳びの作品では一人の顔が消されているのだが、これも妙に気になる)
作家と山形による通常のデモンストレーションでは、話題の拡散性や「どこに着地するのか分からない、そもそも着地しない」性格まで含め、柔軟に(自由に)思考するという行為の理想的な形を追究しているように思われる。しかし今回の作品たちは逆に、思考が、その思考そのものとは無関係な外的要因や条件によって常に阻害されるという状況が取り上げられているように思った。そしてその「数々の疎外するものたち」の露呈(不透明化)によって、世界の「見えなかった」別の様相が浮かび上がる。
課題や問いという形で、まずある方向性、進むべき目的が定められるが、重要なのはその目的そのものというよりも、目的をたてることで見えてくる、認識と対象との間にある様々な介在物の存在の方なのだと思った。目的を立て、それに向けた行為をはじめた途端に、それまで透明で何も無いと思われた空間に、次々と不透明な「物」が遮蔽物として立ちふさがる。見えなかったものが見えるようになる。世界が物で溢れる。そういう感じ。
●小林耕平の作品は、ホームセンター(にある商品)とビデオカメラで出来ているという感じがあり、ホームセンターとビデオカメラで思考する、郊外的、ホームセンター的想像力の、ぼくの知る限り最も過激で面白い形だと思う。