2019-09-22

16日の樫村さんのトークでちらっとタイトルが挙げられていたシュワルツェネッガーの『プレデター(1987)U-NEXTで観た。なるほど。

非人間的な存在との生存を賭けた激しい争いの果てで発せられる、「おまえは誰だ」という問いに対し、非人間の側からもまた「おまえは誰だ」という問いが返ってくる。「~とは何か」と問いを発せざるを得ない存在としてある自分の「存在」が、向こう側から戻ってくる問いによって---ある意味鏡像的に---照射され、それによって「問い」そのもの(問い-答えという機構)が無化され、「問うている自分のありよう=存在」が露呈してしまうような、なんとも言えない不快な感触が生じる。存在論的ないやーな感じ。舞台が(感覚入力が過剰な)ジャングルであるというところにも、来るものがある。

楳図かずおの「半魚人」のラストで、完全に半魚人になって海へと去っていく友人が、主人公が吹くハーモニカの音に一瞬だけ振り向いてこちらを見る。この仕草から、友人に最後まで残っていた一片の人間性を読み取ることもできるが、そうではなく、非人間的なもののまなざしによって「見られる」ことによって、見られた側の人間性の根拠の方が揺らがされてしまうという風に読むこともできる。そのとき、半魚人のおぞましい非人間性が、人間という存在の怪異の方に転移される。この感触に近いものが『プレデター』からも感じられた。

(ここで問題になっているのは半魚人への変身でもあり、半魚人は非人間化した未来の人間の姿でもある。)

「~とは何か」と問いかけることそのものが「存在の露呈」にヴェールをかける一つの防衛の身振りであるとして、人間的な行為としての(答=真理が期待された)「問い」が、誰にも受け取られることなく、その問いの先にある非人間的な存在からただ折り返されることで、「問い(とその答え)」という機構が崩れ、「~とは何か」と問うている何か(問いの発生源)としての「この、これ(わたし)」のありようの異様さが焦点化し、それが不快感として浮かび上がる。

プレデター』の場合、「問い」の向かう先にある非人間的な存在が、最初は、透明でありながら背景から微妙にズレていて、明快には掴めないがまったく見えないわけではない何かという形であらわれる(半端な光学迷彩みたいな感じ)。まったく見えないわけではないが、ジャングルそのものと中途半端に一体化している。それによりまず、「見えるもの=真理」という「防衛としての見ること」が微妙に揺るがされる。

だがその非人間的な何かは、ジャングルに遍在する(ジャングルそのものの魂であるような)精霊のようなものではなく、異物であり、最後には、醜く、おぞましい、異形のエイリアンの個体として姿をあらわす(逆に       シュワルツェネッガーの方が---泥を被ることで---エイリアンに対して「見えない者」となり、その意味で両者は対称的でもある)。「おまえは誰だ」という問いに対して「おまえは誰だ」と問いを返してくるのは、異形の者として既に視覚化されたエイリアンである。だからここで、エイリアンの異形が人間の「存在」の異様さの鏡像となっているとも言える。「存在」の感触を露呈させるのは、対象の中途半端な不可視性であるより、非人間的なものによる「問い」の折り返し(「問い-答え」という機構の無効化)の方であろう。

シュワルツェネッガーとエイリアンは、ある意味では鏡像的ではあるが、たとえば『ソウル・ハンターズ』でレーン・ウィラースレフが描く、ユカギールのハンターとエルクの間に成り立つような、ミメーシスを媒介とした誘惑的な関係は生じない。エイリアンは徹底して非人間的な異物であることによって、人間の存在の異様さを照らし出す。

〔追記。たとえば、私たちが宇宙を見上げ、この宇宙に私たち人類が存在しなかった可能性について考える時、それについて認識する者がなく、それでも存在する宇宙は充分にあり得るが、しかし、その時の「宇宙」とは一体「何であるのか」という「問い」を発せずにはいられないとする。しかしこの「問い」には答えようがなく、そもそもどのような認識を得られればそれが「答え」として成立するのかさえ分からない。故に人は、宇宙に向けられた、というか、宇宙から強いられた「問い」が、決して「答え」には向かわず、そのような問いを問わずには居られない自分自身の方へ戻ってきて、答えに向かうあてのない無意味な問いを、それでも「問わざるを得ない何か」としての「自分の存在」の異様さを意識せざるを得なくなる。この時、宇宙のとりとめのなさは、わたしという存在の無根拠さ(異様さ)という感情が形作られるための源泉となり、その意味で宇宙と私とはある程度鏡像的であるが、その鏡像的関係には同格性はなく、圧倒的に非対称であり、ミメーシスを媒介にするものではあり得ないだろう。〕

(いや、実はエイリアンも多少人間的であり、そこが弱いと言えば弱いと思うのだが。)

(なんとか生き残ることができて、ヘリコプターで運ばれている時のシュワルツェネッガーの忘我の顔こそが、おぞましいものとして造形されたエイリアンよりも、存在論的なおぞましさをもつ。)