2023/11/18

⚫︎マルクス・ガブリエルの平坦な存在論において、さまざまな「意義の(諸)領域(意味の場)」は全てフラットであり、階層構造、メタ的構造を有さない。たとえばフレーゲは、実際に見ることのできる「明けの明星」や「宵の明星」を「意義」とし、それらを統合する上位概念としての「金星」を「意味」とすることで、階層構造を考える。しかし、マルクス・ガブリエルはあらゆる存在は「意義」の次元にあると考える。以下、『マルクス・ガブリエルの哲学』(菅原潤)、第二章「ユニコーンは存在する」に引用された『諸々のフィクション』からの孫引き。

《グレートヘン(ゲーテファウスト』の登場人物)は宇宙において、連邦首相は形式的システムにおいて、フェルミ粒子は基本法から生存権を導出する制度において存在していない。グレートヘンが宇宙において存在しないことは、グレートヘンが存在しないことを意味しない。フェルミ粒子が法的権利と義務を有していないことは、フェルミ粒子が存在しないことを意味しない。》

⚫︎グレートフェンはゲートの『ファウスト』という意義の領域(意味の場)に存在し、連邦首相はドイツの政治システムという意義の場に存在し、フェルミ粒子は物理学という意義の領域に存在する。存在とは、ある特定の意義の領域において存在することで、それは別の意義の領域には存在しないし、すべての意義の領域を貫いて存在するものもない。すべての意義の領域を「予め」包摂する全体=世界は存在しない(具体的な意義の領域が存在するより前に「世界」という「先取り」が存在することはできない)。

⚫︎マルクス・ガブリエルは、フィクション的存在を、非空想的存在と空想的存在に分ける。非空想的存在とは、小説ならばテキストに実際に書き込まれたものそのもののことで、空想的存在は、小説を読むことによって読者の中で生じた経験の中にあるもののことだ。後者は、読者が小説をパフォーマンスすること、あるいは解釈することで存在するとされ、フィクション的存在には後者が不可欠であるとする。ボルヘスの「アレフ」で、宇宙のすべてがある一点に現れているという場所の「描写」には、宇宙のすべてが長々と書き込まれているわけではなく、その記述から読者が「宇宙のすべて」に相当するものを感じとる(想像する)ことができるかどうかが問題となる。フィクション的な存在の中に非空想的なものと空想的なものが混在することにより、意義の領域(存在)の「改訂可能性」が生じる。以下、『マルクス・ガブリエルの哲学』(菅原潤)、第二章「ユニコーンは存在する」より。

《(…)空想的対象を思い描くためには想像力の補填が必要になる。例えば半沢直樹に登場する東京中央銀行は東京には実在しないが、そのことによりドラマの一切が絵空事として片づけられることはなく、東京として描かれたイメージの一部を改訂する形でわれわれは物語を受容する。同じことは芸術以外のフィクションにも適用される。つまりは自身の前提としていた知見を一部を改訂して他者との折り合いをつけるのであり、不同意の事実によって関係が断絶するということはあり得ない。》

⚫︎マルクス・ガブリエルは、このような「不同意」と「改訂」こそが共同性や社会の基礎となるとする(理念や理想が先にあるのではない)。まず『諸々のフィクション』の孫引き、ついで『マルクス・ガブリエルの哲学』、第二章からの引用。

《不同意とは異議の差異であるが、それは二人の個人が相入れない命題的立場を有したりそれをさらに言語的に分節化したりする際に初めて顕在化するものではない。何かを他人と違って見ること自体が、一つの不同意の形式である。場所が変われば同一の対象の見え方が変わるという洞察にしたがえば、両立可能性はあり得ない。そのことを洞察していけば不同意も容易に調停できる。》

《ガブリエルによれば、ここで言われる「不同意」は政党間のイデオロギー的対立とか、宗教的価値観のにまつわる武力衝突とかのような深刻なものに限定されない。むしろ「他人とは違って見ること」から、すでに不同意は始まっている。つまりは同一のもの、あるいは同一のものとされるものについての相違なる意義の領域のあいだの不一致が「不同意」であって、自身の意義の領域を改訂し不同意を減らしていくことが社会の成立だと考えられている。》

《ここで重要なのは、ガブリエルが「社会」を構想するにあてった何らかの特質をその社会に賦与していないことであるガブリエルによれば、社会のあり方も先回りできないものであり、その都度の改訂作業を通じて社会の共同性が確認されるということになる。》

《こうした不同意の直面をガブリエルは社会的事実と呼び、真偽を決定できる真理とは別次元で考える。》

⚫︎芸術の自律性について。さまざまな点でグレアム・ハーマンと相入れないマルクス・ガブリエルだが、ここについてはほぼ一致しているように思われる。『諸々のフィクション』の孫引き。

《芸術作品の過度な自律性が意味するところによれば、芸術作品にまつわるあらゆる知覚、あるいは芸術作品に対するあらゆる接触さえも、芸術作品の一部でなければならない。芸術作品を知覚するためには、芸術作品を解釈する、つまりパフォーマンスしなければならない。交響曲の鑑賞は交響曲の一部であり、ピカソの彫刻の鑑賞は彫刻の一部であり、ル・プレ・カテランの食事は食事の一部である等々である。われわれの―-芸術作品の構成をめぐる思いなしを含めた-―経験が自己構成する芸術作品に関わる仕方が、伝統的に美的経験と呼ばれる。美的経験の抱える問題は、われわれを芸術作品に吸収することである。芸術作品の一部になったわれわれは、芸術作品から逃れられなくなる。芸術作品を出入りする自律的方法が人間にはない。》