2023/03/25

マルクス・ガブリエルがアートについて書いた本の翻訳が出るらしい。

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しかし、それにしても「天才哲学者」という売り文句は「東大生クイズ王」みたいでバカっぽいからやめないかなあ、と、いつも思う。《29歳で、史上最年少のボン大学哲学科教授に就任って、そこをウリにするのは哲学者としてダサくないか、といつも思ってしまう。

(マルクス・ガブリエル本人は、日本でこのような売られ方をしているのを、知らないのか、知っていて許容しているのか、それとも、自らノリノリで「ワリぃっすけど自分、最年少で教授になったんすよ」っていう感じなのだろうか。)

この十年か二十年くらいで、みんなびっくりするほど権威主義的になったのではないか、とは感じる。権威の後ろ盾のあるもの、権威ある賞を受賞したもの、あるいはやや異なるが、売れていたり、バズったりして、既に「有名」であるもの(つまり「既に結果を出した」もの)、に、なんと言えばいいか、「依存しすぎでは?」と感じる。

確かに、隙あらば人を騙してでも自らの利を得ようとする人たちがはびこるなか、権威は、とりあえず一定の安心は与えてくれる。「自分の頭で考える」ことで陰謀論に堕ちていった人をここ数年で何人も目の当たりにせずにはいられなかったことを考えても、安全策として差し当たり権威に頼るのは正解のようにも思われる。でも、それで面白いのかな、とも思う。

ぼくは、「批評」というものの(もちろん「それだけ」ということではないが)最も重要な意義は、未だ広くは知られていない、新しい作品、新しい才能の持つ、未だ広くは知られていない「新しい良さ」について言語化することだと思う。それはある意味先物買い的な行為で、だからいつも不十分で、粗く、不正確で、間違う可能性も低くない。でも、未だ何ものかも分からない何ものかについて手探り的に語ることができるというその点だけが、「研究」や「解説」に対する批評の優位ではないかと思う。評価の定まった対象の正確で緻密な研究とは違って、すぐに消えてしまうかもしれないものへの、はやとちりで間違える可能性がある(「間違えることができる」というのはとても重要なことで「間違えることのない」ことをするほど退屈なことはない)探究が批評なのではないか。

しかし現状は、既に有名な、既に成功した作品について、(それへの批判も含めて)何か上手いことを言う、あるいは詳細に分析する、みたいなことになっている。つまり、なぜ「他の何か」ではなく「それ」について語るのかというところで、既に保証ができてしまっている。有名な作品から、今までに語られなかった新たな側面を引き出したとしても、その作品は既に有名であり、その時点で批評する対象(というか、その対象への既にある評価)に依存していると言える。

既に「語られるべきもの」だと保証されているものについて語る退屈さ。

(追記。いつも思うのだが、既に「売れた」ものに対して「◯◯はなぜ売れたのか」と解説することほど無意味なものはないのではないか。後出しジャンケンは絶対間違えない。)