●引用、メモ。岡本源太「マルクス・ガブリエルと芸術の問題」(「現代思想」10月臨時増刊号 特集マルクス・ガブリエル)より。
《なぜ芸術は世界が存在しないことを示すのか。なぜ哲学は芸術を導きの糸とするのか。》
《以下、ガブリエルの芸術論に特徴的と思われる二つの点を考察しよう。すなわち、一つは芸術と自然科学/形而上学との対置であり、もう一つは芸術と絶対者の類比である。》
●芸術と自然科学/形而上学との対置
ピカソポロックの絵画は、観者の快・不快の神経刺刺戟に還元できるものではない。それどころか、観者の反応そのものが美術史の知識や他者の解釈、あるいは経済的価値や政治的状況といった自然科学的過程とは別のさまざまな水準に依拠している。》
《自然科学との対比において芸術を理解するなら、芸術をたんなる刺戟や娯楽とは見なせず、またいわゆる自然の模倣とするわけにもいかなくなるだろう。ガブリエルによれば、芸術の本質は「構成」にある。構成とは、換言すれば「層の編成」であり、いくつもの意味の場を重ね合わせていくことだ。『なぜ世界は存在しないか』でのフェルメール《窓辺で手紙を読む女》の作品記述が、おそらく分かりやすい。若い女性が室内の窓辺で手紙を読んでいる情景という物語解釈からはじまり、この情景をわたしたちが窃視していることの精神分析的含意の考察、さらにキリスト教道徳にもとづく罪の戒めという教訓的読解へと、この絵画の理解は次々といくつもの水準を通過してことでなされる。芸術作品は、自然の構造が科学的に認識されるときのように一つの法則へと行き着くことはない。それどころか、多様な解読格子を縦横に重ね合わせた多層的な構造を生成し、理解のための新しい法則をみずからつくりだすのだ。》
《ガブリエルは、自然の「構造」に比してはるかに動的で開かれたこの芸術作品の多層的な構造を「生成構造」と呼ぶ。美はそうしたいくつもの層の構成において打ち立てられるのであって、単一の層にあるのではない、と彼は指摘する。》
●芸術と絶対者の類比。「みずからによってみずからを根源的に個体化する」
《(ガブリエル「芸術と形而上学」からの引用)したがって、芸術の自律性はわたしたちの好意によるものではない。だれであれ、あるものを承認してそれを芸術作品にすることなどしない。芸術家も、受容者も、学芸員も、芸術市場も、またそれらすべて(ダントーがアートワールドと名づけたもの)であってもだ。なにものも魔法の指を持ってはいないのだ。それゆえに、芸術作品は絶対者のもとに休らう。これが、ドイツ観念論の英雄時代における芸術哲学の根本理念であった。
絶対者とは根源的な自律者である。(…)「ほかでもないものはほかでもないものにほかならない」(…)絶対者とは非他者である。その自律性は、生起構造として現れてみずからを法則として与えることに存する。》
《芸術が「絶対者」ないし「非他者」とされるのは、その自律性ゆえだ。「生起構造」としての芸術作品は、すでに言及したとおり、自然の構造のように何かあらかじめある一つの法則に依拠するのではなく、みずからを自身の法則としてそのつど新たに与える。よって芸術は、何ものにも依存しない絶対的な自律性をもち、みずからによってみずからを根源的に個体化することになる。》
《すぐにわかるだろうように、芸術が自身で自身の法則を作り出すとは、カントの天才美学からこのかた近代美学のもっとも基本的なテーゼの一つとなってきたものである。とはいえガブリエルにおいては、法則を与えるのは芸術家の天才ではなく、作品それ自体であることに注意したい。》
●絶対者=自律性による、形而上学構築主義への批判。「作品にあらかじめ観者の眼差しが含み込まれてしまっている」
《一方で、芸術作品はあらかじめ存在している自然法則を例証するようなものではなく、みずからを自身の法則として与えるがゆえに、その認識はあらかじめ存在する規則や理論の適応ではなく、作品自体から法則を引き出さねばならず、意味の場をたえまなく多層化していくことになる。この点で芸術は、すべてのものごとを単一の意味の場へと還元しようとする形而上学への批判となる。他方で、芸術作品は多層的な生起構造であるがゆえに多義性を有するとはいえ、観者の恣意によって好き勝手に解釈されるうるわけではない。それどころか、解釈の多義性は芸術作品の生起構造それ自体に由来するものだ。観者の眼差しによって芸術が成立するどころか、作品にあらかじめ観者の眼差しが含み込まれてしまっているのだ。》
形而上学の想定する「観者なしの世界」でもなく、構築主義の語る「観者の世界」でもなく、世界という全体性なしに無限の多様性を考えようとする新実在論は、まさに意味の場をたえまなく多層化していく絶対者としてあらゆる対象を把握することになるだろう。》
●美学、絶対者
《(…)彼の新実在論は、概念以前の思考を問うという美学の古典的プログラムを、意外なほど忠実に引き継いでいると言えるかもしれない。論理学という知性的認識の学を補完すべくバウガルテンによって構想された感性的認識の学としての美学は、明晰判明な概念へと規定されて論理的に進展する思考以前にある、感覚や想像における真理を問題としてきた。》
《とはいうものの、新実在論において芸術は、もはや人間が自己を表現するようなものではまったくなくなり、それどころか芸術家であれ鑑賞者であれなにものにも支配されることのない絶対者、すべてをみずからの多層的な意味の場の構成へと巻き込んでいきうる絶対者と化している。》