2020-10-31

●『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル・中島隆博)は、新書で対談本なので、そこまで突っ込んだ議論がなされているわけではないが、しかし、『なぜ世界は存在しないのか』だけでは充分にはみえていなかった、マルクス・ガブリエルの過激な部分やルーツ(中国哲学との関係)がちらちらと垣間見える。彼が、自然主義(自然科学によってこの世界が解明できるという考え)をかなり強い調子で否定することにやや戸惑いを感じていたのだが、その理由が、なんとなくだが、うかがえる感じもある。

以下、マルクス・ガブリエルの発言部分からの引用。

●無底。

《(…)王弼の『老子』読解は、シェリングの洞察とよく似ているのです。具体的に言えば、わたしが哲学史上、最も気に入っているシェリングの「無底(Ungrund)」という概念に近いものが、王弼の解釈にも、そしておそらく原典の『老子』にも見出すことができるのです。

ある意味で、わたしが哲学者となったのは、無底という概念を知ったときでした。実際、わたしは多くの論文で無底の概念を取り上げています。

では無底とは何か。それは、「現実=実在は、統一的な法則に支配された存在者の体系ではない」ということです。

これはシェリングの考え方で、ニュートンやカントの思想の流れに真っ向から対立するものです。ニュートンやカントは、現実=実在を、思考に与えられた多くの点の集まりととらえ、それぞれの点は自然法則に従っているがゆえに、まとまりをなしていると考えます。カントはそうした自然法則の背後に何かがあるのではないかとまでは考えたものの、答えは出せませんでした。

シェリングと王弼は、こうした議論の前提に疑問を投げかけているのです。わたしは、あらゆる中国哲学は、「現実=実在は、法則に支配された存在者(物)から成り立ってる」という近代的な誤った考え方を否定していると思います。

あるいはこう言った方がよいかもしれません。中国哲学には「万物」という観念があり、その万物がそこから生じてくる底(Grund)そのものは物ではないと考えていると。この「無物」が、わたしの読解では「無」であって、それが存在する物すべての背景となっています。

これは素朴な二元論とは異なります。素朴な二元論では、一方に、法則に支配された物の領域があり、他方に法則なき暗い底があると考えます。たとえばショーペンハウアーは、仏教と重ね合わせてこうした見方を示していました。ちなみに、それは明らかにアジアの哲学的伝統からの影響ですが。

しかし、老子と王弼を踏まえると、こうした二元論は素朴です。老子と王弼が言っているのはこういうことです。「穴」や「窓」や「器」といった外に開かれたものが出てくる底がある。つまり、物の背景自体は物ではない。このことに気づくと、物と思われたものも物ではない、つまり「無」であることがわかる。

これが、わたしなりの「無」というテーマのとらえ方です。もし法則に支配されたシステムのもとに、点のような物があるという誤った概念をもつと、その「無」は、物のもっている安定性を得てしまします。》

●原事実、原偶然性。

《わたしは、後期シェリングの議論をこんな風に読んでいます。机の上にペットボトルがありますね。でもさっきまではありませんでした。では、机にペットボトルがない状態からある状態への移行をどう考えればいいでしょうか。

シェリングによれば、ペットボトルが置かれる以前の状況をすべて知り尽くしても、机の上にペットボトルが置かれるようになることを知ることはできません。たとえ「こういう場合なら、ペットボトルがあるだろう」といったような予見的な知識をもっていたとしても、それは単に、特定の条件に関わる問題を提起するだけです。その条件は、どこから来るのでしょうか。その条件が由来する条件を知っても、さらにその条件の条件自体はどうなるのでしょうか。わたしは条件の条件の……条件という知識はもてません。

結局、あるのは事実だけです。シェリングが言うように、この事実が存在するという事実---その事実性---にそれ以上の根拠はないのです。》

《(…)彼はそれを「それ以前を考えることのできない存在」とも言います。他の存在がその背後にあるとは考えられない存在のことですね。ですから、「それ以前を考えることができない存在」は、ペットボトルにも宇宙にも自然にもなりえます。何であってもいいのです。

しかし、事実の背後に考えうるものはない。これが「無底」の意味するものです。するとここに、後期シェリングのトリックが出てくるのです。原事実を根拠づけるような理由がないことを考えると、原事実がないことの理由もないというものです。

人々は常に、偶然性は何かが存在する理由がないことだと考えてきました。しかし、シェリングは、偶然性が存在することを排除するものもないというのです。つまり、原事実が存在することを排除するものはなく、事実がいきなり生起するということです。これは実に現代的な議論です。》

《たとえば、無限の側面をもった立体を想像してみましょう。その立体のひとつの側面にわたしたちがいるとします。そこには無限の時間があります。立体は常に回転しています。これがわたしたちが置かれた状況です。でもわたしたちの状況がそのように示されたものであることの理由はありません。その背後には何もないのです。シェリングは、この立体のようなモデルを一般化したわけです。

あなたは、この立体はどこにあるのか、どうなっているのかと、統計的あるいは物理的な説明を求めるかもしれません。

しかしシェリングに言わせれば、それは間違っています。立体の状況をそのように説明するための、すでに存在しているリアルなものなど必要ありません。あなたに必要なのは、存在するものの無限の可能性だと言うでしょう。このまだ存在していないもの、存在していない可能性が、すべての物において実現されていくのです。》

●原事実は絶えず反復される。

《だからシェリングは、原事実は絶えず反復されていると考えました。原事実は物のなかに維持されているのです。宇宙の始まりや時間の始まりがあるということではなく、物事は一連の出来事の途中に生起するのです。ということは、常に別の出来事が生じているということです。物事は常に可能的なものから存在するものへと直ちに生起します。

わたしたちは、物事はつながっていると考えがちですが、シェリングはそれを幻想だと退けます。その代わりに、原事実がその間ずっと反復されていると考えるのです。かつてヘラクレイトスが巧みに語ったように、シェリングも「時間はサイコロで遊ぶ子供である」ということを念頭に置いています。》