●今日もまだ、半分は寝ていた。
●メイヤスーの『亡霊のジレンマ』には、「思弁的唯物論の展開」というサブタイトルがついている。いままで通常「思弁的実在論」とされていたのが「思弁的唯物論」になっているのは、メイヤスーとそれ以外の人(ハーマンやガブリエルなど)との違いを明確にするためなのだろうか。メイヤスーはインタビューで自分は「単なる実在論ではなく唯物論」だと言っていて、この点で、唯物論を否定するグレアム・ハーマンやマルクス・ガブリエルと対立する。
●最初のインタビューと「亡霊のジレンマ」を読んでから(それ以外はまだ読んでない)、改めて『有限性の後で』の第一章を読み返して思ったのだが、メイヤスーの基本的なモチーフは、神とか、正義とか、真の喪とかいった、(ドストエフスキーを思わせるような)倫理的な問題なのではないか。
祖先以前性とか、相関主義の批判とか、事実論性とか、確率論的な運=偶然と、根源的な偶然性との違いとか、「強い相関主義者」の懐疑を、思考の問題ではなく実在の問題であるという形でひっくり返すこととか、そういう概念とか主張とかはすべて、「亡霊のジレンマ」で語られる「真の喪」の実現のために必要な条件、つまり「神はまだ存在しない/神は未来において存在し得る」ということを、いかにすれば論理的に正当化できる形で提示できるのかという目的から逆算されて出てきているのではないか。
キリスト教における最後の審判。世界の終末の日にそれまで生きたすべての人が復活し、神の審判を受ける。この時に、この世界において虐げられたいかなる人々も救われ、神の前にあらゆる正義、平等が実現する。これによってはじめて非業の死を強いられた者に「真の喪」が与えられる。これがメイヤスーの想定する「宗教の立場」であろう。
それに対し「無神論者」は、そのような神がもし存在するのならば、今、理不尽に殺されたり耐え難い苦痛を与えられている人に、それを与えている(押しつけている)のは、当の神自身であるはずだから、そのようなことを引き起こしている神、そのような神の支配下でなされる正義などというものを信じられるだろうか、と反論するだろう、と。
《君は私にこう言いたいのか。神の現前に際して、私は、感嘆の内に、創造物に対する神の無限の愛の本性を理解するであろう、と。[だがそうであるなら、]君は自分が約束する悪夢を増大させているに過ぎない。というのも君は、非業が生じるのを放置した者をまさに非業が生じるのを放置したがゆえに愛するほど私の心を根本的に変容させる力を、そうした存在に想定しているからだ。(…)神は、あたかもそれが善であるかのように私が悪を愛するように仕向ける力をもつであろうから。だから、神が存在するなら、死者たちの境遇は無限に悪いものとなる。》
もし、今この宇宙に「神」が存在するとしたら、その神は《究極の悪を放置し生み出すことを愛と呼ぶ神》である。しかし、もし神が不在であるとしたら、過去から現在まで、非業の死をとげたすべての人たちが救われる機会が永遠になくなってしまう。ここに《真の喪》の実現の二重の挫折がある。「真の喪」の実現のためには、神は存在してはならないが、神は存在せねばならない。これがメイヤスーの言う「亡霊のジレンマ」だ。
このジレンマを解消するためには、《死者の復活可能性》と《神が現実存在しないこと》が両立しなければならない。このためには「神の存在の可能性」という問題の意味が、《確実ではないが、神は実際に存在することもあり得る》というものではなく、《神は将来現実に生まれ得る》という形に変更されなければいけなくなる。つまり、現時点ではこの世界のどこにも神は存在しないが、未来のある時、神のようなものがまったく存在しないこの世界の条件の中から、(「真の喪」を実現し得る)神と言えるような何かが偶然に出現する可能性がある、と言えなければならないということだ。
《ジレンマを解消することができない自然法則しか存在しないということを認めるのなら、このジレンマは解消し得ない。だがそれは、それに加えて、自然法則の必然性が認められる限りにおいて、しかもその限りにおいてでしかない。》
よって、ジレンマを解消し得るためには、この世界の自然法則そのものが、ある時突然、まったく別様に変化し得るという根本的な変化(根本的に新しいものの到来)の可能性を、「時間」というものの性質がもっていなければならない、ということになる。
《(…)神は、いかなる法則にも従わないカオスの、偶然的で永遠に可能的な効果(effct)として思考されなければならないことになるだろう。》
このような「亡霊のジレンマ」の解消こそがメイヤスーの最大のモチーフであり、そのために、「物質」という概念や「時間」という概念を考えなおさなければいけないのだと考えているのだとすると、『有限性の後で』に描きだされるアクロバティックな論理が「なぜ必要だったのか」について納得できるように思われる。
●たとえば、『有限性の後で』の第一章の最後のところに、超越論的主観が出現した「時間」が、それ(主観)が「表象する時間」に先立ってあるということを示した部分があるが、ここで(超越論的主観が出来した)、前者の非相関主義的な「時間」が確保されなければ、「神が出来し得る」ための「時間」も確保されないことになる。それ以前(祖先以前)にはなかった「超越論的主観的」を出来させた、その地となる非相関的時間があるならば、そこからまた別の「新たな何か」が出来する可能性がある。つまり、「神」の出来の可能性を言うために、「祖先以前性」という概念や相関主義への否定が最初のステップとして必要だったのではないか。
《(…)私たちは、科学の時間が、生きた身体の出現を時間化・空間化するということ、つまり、超越論的なものが場をもつ=発生することの条件の出現を時間化・空間化するということを発見する。(…)主体がここに、地球上に出現したのか、他の場所にも存在したのか、というのは純粋に経験的な問いである。しかし、主体が時間と空間のなかで身体に例化されて出現した---端的に、出現した---ことへの問いは、客観的身体と超越論的主観とに不可分に関連する問いなのである。そして私たちは、この問題が、いかなる場合であれ、超越論によっては思考されえないものであることを発見する。なぜなら、この問題は、超越論的主観が場をもたないでいることから場をもつに至る移行が可能となった時空間に関わるものだからだ。つまりこの場合の時空間は、表象における時空間的な形式に先立つのである。こうした祖先以前的時空間を思考することは、同じ身振りにおいて、科学の諸条件を思考することであり、超越論的なものはこの責務を果たすのに本質的に不適合であるとしてその失効を宣言することでもある。》