●お知らせ。明日、4月22日づけ、東京新聞の夕刊に、茅ヶ崎市美術館でやっている青木義雄展についての美術評が掲載されます。この展覧会、絵が好きな人には観ることを強くお勧めします。日本の近代絵画史に、こんな画家がいたのかということに驚くと思います。
http://www.chigasaki-museum.jp/exhi/2016-0403-0605/
●ようやく『有限性の後で』の第一章「祖先以前性」のところだけ読めた。ここだけだとまだ、うーん、という感じだけど。
第一章を読みながら頭に浮かんでいたのは、ここで批判されている、西洋大陸系哲学の王道としての相関主義(カントからハイデガー)とは全く別の、より極端な二つの「相関主義(と言ってもよいと思われるもの)」だった。一つは、過激な相関主義と言えるもので、超越論的な条件をそもそも認めず、生命(主体)とは、次々と超越論的条件そのものを書き換えてゆく運動のことなのだと考える「内部観測」。世界を作りだし作り替えるものとしての生命の動きを世界の基盤に置き、この本の用語で言えば、共-帰属=生起という立場を徹底している。もう一つは、宇宙のはじまり(科学的にはビッグバン)と同時に「主体(少なくともその萌芽となるもの)」も生まれたのだとする、アニミズムというか、「心身二元論」で、哲学的にはチャーマーズに代表されると思われる。心身二元論を採用すると、祖先以前性という概念が成り立たなくなる。ビッグバンの時に既にそこには「前-主体性」と言えるものがあったことになる。まあ、これらの関心は「哲学者」ではないぼくの無責任さからくるものであるけど。
だけど「哲学者」であるメイヤスーにとっては、「超越論的なもの」は決定的に重要なのだろう。
《したがって、私たちの問いは次のように再定式化される。いかなる条件において、近現代科学における祖先以前的言明を正当化できるのか。これは一種の超越論的な形式の問いだが、その特徴は、第一条件としての超越論的なものを放棄している点である。(…)相関的循環という明らかに避けがたい力を私たちは心に留めておかねばならない(素朴実在論者に反して)。だが、相関的循環は、もはや手の施しようがないほどに祖先以前性とは両立不可能である(相関主義者に反して)。》
「超越論的なもの」が重要だからこそ、「相関主義」が乗り越えられなければならないのだろう。《超越論的なものの力は、実在論を幻想にすることではなく、実在論を驚くべきものにすることにある》。