●金沢21世紀美術館のウェブサイトから、ボリス・グロイス「新しさについて」というテキストがダウンロードできる。
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=52&d=2
かつてマレーヴィッチは、美術館の古いコレクションは破壊しろ、ルーベンスなど灰になってしまえ、我々にはもはや「ヴィーナスの太った尻」を描くことは不可能になった、と言って、現実的で、新しく、生き生きとしたものの、「美術館の中の絵」に対する優位を宣言した。しかしグロイスは、美術館が古く伝統的なもののすべてを収集するからこそ、我々は《もはや古いことはできない》と「強制される」のだという逆説を示す。美術館のない「冷たい文化」では、過去を継続的に再生産しなければならないが、過去が美術館に保存されていれば、伝統の繰り返しは価値のないものになる。《マレーヴィッチが言うように、もしルーベンスの作品が本当に燃えてしまったなら、実際、再びヴィーナスの太った尻の絵を描く道が開かれるのだ》。
グロイスによる、このような、収集されたり記録されたりすること(ミュージアム、アーカイブ)に対する多大な信頼が、「生政治時代の芸術」(「表象05」)を読んだ時にも納得できないところだった。たとえば、次のような「ミュージアム」への過大とも思える評価をどう捉えればいいのか。
《(…)ミュージアムとの関係では、「現実」自体が派生物なのである。「現実」はミュージアムの収集品との比較によってのみ定義される。このことは、ミュージアムの収集品の変化が、我々の現実そのものに対する認識を変化させることを意味する。結局この文脈では、現実は、まだ収集されていない物の総体として定義することができる。それゆえ、歴史は、ミュージアムの壁の外で起こる完全に自律的な経過として理解することはできない。》
ミュージアムに既に収集されているものが「過去」であり「死んだもの」であるということは、生き生きとした「現実」の定義とは、未だ収集されていないものということになる。このような形でミュージアムこそが現実を定義する。これは本気なのか、それとも現代アートに対する皮肉混じりの言葉なのか。恐竜は、自分が自然史博物館に展示されることになるとは思いもしなかったが、アーティストは、自分の作品が美術館に展示される「かもしれない」ことを意識して制作している、と。「現実」とは、未だ美術館で展示されてはいないが、いずれ展示されることもあるかもしれない作品たちのことなのだ、となる。
グロイスにおいて、生き生きとした、新しいアートとは、だから、美術館の外から美術館の内へと持ち込まれる中間にあるような、まさに、新しく「アート」と認定されたばかりの作品のことになる。だからアートは新しくなければならない、とグロイスは書く。そしてアートが「新しい」ためには二つの条件があるとする。(1)差異が分かることと、(2)差異が分からないこと。(1)については、新型の自動車は過去の自動車との差異によって「新しい」のだ、という普通のこと。(2)は、たとえばキリストは、その存在の仕方がまったく新しかったからこそ、当時の普通の人々と区別がつかなかった、というようなこと。「新しさ」のあり様そのものが「新しい」場合、一見しただけでは「新しい」ということが分からない。差異のない差異。(2)こそが真の新しさだ、と。
だから新しいアートの条件は、(1)既に美術館にある美術品の形を繰り返してはいけない。つまり、同じ手は使えないということ。さらに、(2)美術品と(美術館の外の)普通の物との間の「古い差異」を繰り返してはいけない。それがなぜ、ただの「物」ではなく「アート」なのかというその「理由や根拠」(普通の「物」との差異のあり様)もまた、その都度新しく更新されなければいけない。(1)がベタな新しさで、(2)がメタレベルでの新しさと言えよう。レディメイド、ポップアート、シミュレーショニズム……と考えてみれば、たしかにこれは、現代アートの「ゲームの規則」をとても的確に捉えていて、頭いいなあと思う。でも、本当にそれでいいと思っているのだろうか。思っているようだ。
《新しさが新しさとして経験されるのは、場外が無限に広がる効果を生み出す場合のみである。すなわち、それが、美術館の外にある現実に向かう無限の眺めを開いた時である。そして、この無限の効果は美術館の内側でのみ生み出され、より正確には、演出される。本当の現実の状況では、我々自身の存在が有限であるがゆえに、現実は有限であるものとして経験される。小さく、コントロール可能な美術館の空間は、美術館の壁の外の世界を、すばらしく、無限で、恍惚とするものとして観客に想像させる。このこと、すなわち、美術館の外を無限のものとして想像させることが、実際、美術館の最も重要な機能なのである。》
美術館の収蔵品がその外の「現実」を定義するという話をさらにもう一度裏返したようなこの逆説には、非常に重要な真実が含まれているように思われる。しかし同時に、なぜそんなにミュージアムという制度を信頼できるのかがよくわからない。
(ぼくは、この話を「ミュージアム」という制度を特権視する形ではなく、もっとフレキシブルに、フィクションというもの一般の効果として捉え直して考えたい。)
モダニズムにおいては、理想化された(安定した)美術の文脈があり、革新とはその文脈の上に新しい形を置くということだった。だが現代では、文脈は常に変化する不安定なものであり、だからこそ、見慣れた(他と見分けのつかない)「物」を、新しい、面白い物に「見えるようにする」ための新しい「文脈」が、枠組み、背景、理論的解釈が、その都度新たにつくりだされることが求められる。このことが、(2)の「差異のない差異」と対応する。そこでは「文脈」は、永遠に変化し続けることを強いられている。グロイスにおいては、ミュージアムやアーカイブこそが、永遠の「文脈の書き換え」を可能にするための基底にあるものとして信じられている。
《永遠に変化しつづける美術館での展示は、すべてのアイデンティティを解体し、すべての歴史的な秩序と分類を蝕み、すべてのアーカイブを内部から完全に破壊するヘラクレイトス的な流転を想像させる。しかし、そのようなヘラクレイトス的な見方は、美術館やアーカイブの内部でのみ可能である。なぜなら、そこでのみ、アーカイブの秩序やアイデンティティの分類が、その破壊を何か崇高なものとして想像できるところまで確立されているからだ。そのような崇高の捉え方は、知覚的な差異は見分けられても、歴史的な秩序に関しては差異を見分けることができない「現実」自体の文脈では不可能である。》
「歴史」を可能にする記憶の蓄積は、本当にアーカイブという形でしかあり得ないのだろうか。ここまでのアーカイブへの信仰は、ぼくにはちょっと共有できないものではあるが、しかし、このテキストを読んで、「生政治時代の芸術」で納得できなかったところが少し分かったように思う。「生政治…」では、アートドキュメンテーションが取り上げられていて、それがたとえ偽のものであったとしても、(『ブレードランナー』で、偽の記憶によってレプリカントが「人間」となるように)ドキュメンテーションのナラティブによって、それまで埋もれていたある存在が歴史化されるのだ、ということが書かれていた。しかし、次々と生産されつづけ、ひたすらアーカイブ化されつづけるだけのドキュメンテーションを、いったい誰が読むのか、と、ぼくなどは思ってしまう。誰にも読まれずに、ただアーカイブ化されるだけで、それが歴史として受肉されると何故言えるのか、それは「現実の政治」ではまったく無力なのではないか、と疑問だった。しかし、グロイスのこのアーカイブへの信仰を読んだ上でなら、グロイスの理屈の中でならそれは成立するのだろうと納得はできる。
グロイスのいうように、アーカイブ=ミュージアム=アートという制度が特権的なものとして確立していると信じられているのであれば(あるいはその理念を信じられれば)、現代のアートにおいて、「アート内文脈主義」と「現実(政治)主義」とが妙な形で折り合いをつけているような状況も納得できなくはない。「新しさについて」は、現代アートの現状肯定のための理論とさえいえる。ただ、ぼくはそこには乗っかれないなあと、改めて思った。アートという既にある枠組みも、ミュージアムの理念も、そこまでは信じられない。
●またちょっと別の話。アーカイブというもののもつ意味は、AIが自然言語を読めるようになることで大きく変わる。AIが自然言語をそのまま読めるようになると、瞬く間に、現存していあるあらゆる文書がAIによって読まれ、認識されることになるだろう。グロイスが理想化している、歴史そのものの基体となるようなアーカイブ的主体が生まれるということではないか。