●(ちょっと、昨日のつづき)「新しさについて」を読むと、グロイスが「美術館」に要請するのは次の三つの機能だといえる。(1)アーカイブとしての無尽蔵性。(2)展示空間の有限性。(3)その内にもちこまれたものを聖化する力。
実際には無理だとしても、理念として美術館は過去の「価値ある」とされたすべての物を収蔵しなければならない。その無尽蔵性により美術館は「歴史」の基体となる権利を得る。美術館は、適切に管理・修復することで、その収蔵品に「永遠の命」を与える(実際には「永遠」ではないが、美術館の内にある物は、少なくとも外にある物たちよりもずっと長く生きる)。その「永遠性」により収蔵品は聖化される(特別な価値があるものという印がつく)。しかしそれは、既に死んだものという印でもある。
収蔵品の無尽蔵性に対する展示空間の狭さ(有限性)によって、作品のすべてを展示することはできない。そこに排除と選別が行われ、その根拠としての文脈が要請される。そして、時々、文脈の書き換えが起こり、それが展示替えを引き起こす。グロイスが言うには、そのような美術館内の配置(価値体系)の変化が、その外へと作用して「現実」(への見方)の変化をつくりだす。
排除と選別は、美術館の外と内の間でも行われる。これはアートであるが、あれはアートではない、と。そこにも根拠として「文脈」が作用する。新しい作品が美術館の内側に持ち込まれるためには、(1)過去の作品との差異、(2)過去の作品の「なぜこれがアートなのか」という根拠(文脈)との差異(「内と外との差異」の差異)、があることが必要。
新しく美術館内に持ち込まれたばかりの「ほやほや」の作品(とセットになった、その作品を「面白く見せる」ための新たな背景・理論・文脈)によって、美術館の内側から、外側の現実へと向かう「眺め」が開かれる。「現実の中で出会う現実」はたんなる現実だが、「美術館の中で出会う現実」には、崇高、恍惚、永遠という感覚が付与される。この、感覚は美術館のなかにある「新しさ」からしか生まれない。
「新しさについて」に書かれていることをすごく粗っぽく要約すると以上のようになる。新しさこそが永遠であるという不易流行の思想だけど、ここで言われる「新しさ」の感覚は、作品の力というよりも、美術館という制度のもつ前述した三つの機能の力によって下支えされて実現する(作品の力にまったく意味がないというわけではないとしても)。つまり、美術館という制度の外(美術館の外、ではない、グロイスのテキストによれば、美術館の外の「現実」もまた美術館という制度の一部だ)にあるアート作品には意味がないということになる。というか、大文字のアートは美術館という制度(あるいは理念)と共にあり、制度の外にアートはない。それどころか、そこは現実も歴史も成立しない「別の時空」ということにさえなる。
おそらくこれは現代のアートの現状を的確に描写していると思われる。そして、アートというものの持つ強い一神教性を教えてくれる。
(ぼくはグロイスの言う「新しさ」を、美術館なしに成立させることを考えたい。)