●竹橋の国立近代美術館に、新しく収蔵されたセザンヌの「大きな花束」を観に行った。すごく良い作品で、よくぞこれを買ってくれた、という感じ。
だけど、セザンヌを観ていると、他の作品を観る気がなくなってしまう。美術作品なんかを観るより、美術館から見える外の風景を観ることの方がずっと意味があるように思われてしまう。
(多くの作品は、人間、あるいは人間たちの関係の方を向いている、というか、人間たちの「間」に置かれるものとしてつくられている。それが悪いというわけではないし、結局、人間はそういうとこをやって生きてゆくしかないものなのかもしれない。だけどセザンヌは、そういうこととはちょっと違う方向を向いているように思われる。そういうセザンヌの作品の力に強く引っ張られると、他の作品がうまく観られなくなる。)
(だが、セザンヌにはルーブル美術館が必要だった。セザンヌにとって美術館は、先人たちによる、様々な感覚のかたちとその表現のバリエーションであり、表現技術の一覧表のようなものだったのではないだろうか。美術史は、美術館の作品群によって浮かびあがるヴァーチャルな「深さ」としてあるのではないか。それは、歴史を記述することによって生じる、歴史のなかでの配置や位置づけといったことは異なる。)
(その都度、何度でも繰り返し「その場」で改めてはじめる――立ち上がる――ものとしての芸術と、表現のための技術とテクノロジーの発展=歴史的蓄積としての芸術。おそらく、異質なその両者の交錯として芸術はたちあがる。でもそれはどちらも、言説や配置としてある「書かれる」歴史の上にあるものとはきっと別のものだ。セザンヌは、その都度改めてはじめるために、何度もやり直す。)
(たとえば、ある作品が「日本近代美術史」という文脈で、確かに意味のある特定の位置を占めていることを認めるとして、でも一方で、それがどうしたというのだろうか、という気持ちもある。でも、「それがどうしたというのか」と言ってしまうと、人間たちによる営みの積み上げ――としての芸術の歴史――というものを否定してしまうことになるし、人間のやることの意味など何もないということにもなってしまう。とはいえ、「意味など何もない」ってことで別にいいんじゃねえの、というところからはじまるのが芸術ではないか、という気分もある。でもそれは、甘えた気分なのかもしれない。)
美術館から見える、皇居の緑とビル群、その窓の明かり、道路を埋め走る車の連なり、移動するそのライトの光、お堀の水、濡れている地面、傘をさして歩く人、飛ぶ鳥、薄暗く重たい空…、などを観ていると、死のことを考えてしまう。最近、死のことばかり考えている気がする。というか、死のことを考えないために、それ以外のことを考えているような気がする。
(「死にたい」とかいうことではなく、むしろ逆に「死への恐怖」ということなのだけど。だから、死について考えるというより、死への恐怖がじわじわと迫ってくるという感じ。)
日記にこういうことを書いてしまうことと、セザンヌの絵との間に、まったく関係がないということはないと思う。