A-thingsと『クレヨンしんちゃん モーレツ!嵐を呼ぶオトナ帝国の逆

●5日から作品の展示がはじまるA-thingsに、作品搬入前の細かい事柄の確認などのために出かける。A-thingsの広川さんは、少し前までニューヨークに行っていて、ニューヨークで観たブライス・マーデンが凄く良かったと言っていた。ぼくもブライス・マーデンはとても好きなので、なんとか日本で作品をまとめて観られる機会はないものか、川村記念美術館あたりでやってはもらえないのだろうか、という話をした。ブライス・マーデンは、ミニマルな作品も、いわゆる、形式的的なものを厳密に追求するようなミニマリズムとはちょっと違っていて(だから、美術史的にはマイナーと言えばマイナーな感じで)、なんと言うか、普通に(趣味的にも)良い絵として観られるようなもので、例えば、たった一色が画面に塗り込まれているような作品でも、その色彩のもつ含みの深さや広がりがあり、それこそが観られるべきであるような作風なのだった。(あと、ぼくは、ヘレン・フランケンサーラーをまとめて観たいと凄く思っているのだけど、なんとかならないものだろうか。)A-thingsのもう一人のスタッフでもある批評家の林さんは、今アメリカにいるそうで、ワシントンで観たセザンヌ展が素晴らしかったと、電話で言っていたそうだ。(林さんはセザンヌの専門家でもあり、セザンヌは沢山観ているはずで、その林さんが改めて言うのだから、よほど充実した展覧会なのだろう。)セザンヌはちょうど今、没後100年くらいの時期で、世界的にもいろいろ展覧会の企画があるらしいのだが、日本に巡回してきたりはしないのだろうか。ブリジストン美術館にあるサントヴィクトワール山の絵は、セザンヌの作品としても良いもので、それが常設でいつでも観られるというのはとても幸福なことではあるのだけど(この前行ったらセザンヌの絵の前にイスが設置してあって、座ってゆっくり観られたのだった)、それだけではなくて、まとめてもっと沢山観てみたいと思うのだった。
●昨日のつづきで、『クレヨンしんちゃん モーレツ!嵐を呼ぶオトナ帝国の逆襲』への文句をもうちょっとだけ。この映画の「懐かしいもの」への批判が薄っぺらでお説教臭いのは、人が「懐かしいもの」に惹かれてしまうことの必然性というか、不可避性に対する考慮がまるでなされていないところにあると思う。イエスタデイ・ワンスモアの二人が、何故、あんなに大掛かりな装置をつくってまで「現実」や「未来」から逃れなければならなかったのか、女性のキャラクターが、何故、少し「外」に出るだけで「疲れて」しまい、「懐かしさ」のなかでしか生きられないと感じているのか、に対する配慮がかけているから、この映画は無神経でマッチョなおっさんのお説教とかわらないものになってしまっているし、この敵側のキャラクターの設定も薄っぺらになってしまっている。(例えば、「偽装」を媒介とすることによってしか現実と関わることの出来ない主人公を創造する、大島弓子の繊細な表現などを思い浮かべれば分かると思う。)テーマパークとして捏造され売り買いされる「懐かしいもの」や「かわいいもの」に対して違和感や気持ち悪いという感情をもつことは、多少でもまともな感覚を持った人なら誰でもあるだろう。しかしその気持ち悪さの内実に少しも触れないで、そこに単純に現実や未来を対置することは、ものすごく暴力的なことではないだろうか。この映画での現実や未来とはつまり、子供たちへの責任であり、それは言い換えれば、自分が死んだ後にも存続する世界に対する責任ということで(「懐かしいもの」によって構成された自閉的世界が否定される根拠があるとすれば、そこにしかない)、それはごくまっとうなことだとは思う。ただ。それが「家族」という形態においてのみ単純化されて語られる時、そこには大きな排除の暴力がはたらいてしまうのではないだろうか。この映画における「現実」を構成するのが、小さな子供とその親の世代に限られてしまっていることは、ほとんど致命的だと思う。