セザンヌを観るために東京国立近代美術館に行った時、帰りにミュージアムショップに立ち寄って「新しいセザンヌのポストカードかなにかありますか」と聞いたのだけどないと言われたので、帰って、東近美のサイトから画像をコピーしてみると、これが予想外にサイズも大きく、解像度も再現性もかなりよい画像で、それからしばしばパソコンの画面に表示されたセザンヌを眺めて長い時間を過ごすのだけど、セザンヌの絵はなんでこんなに長時間観つづけていられるのだろうかと思う。言い方を変えると、「この絵は、どのような構造になっていて、どのようなやり方で描かれているのだろうか」という解析的な視点(距離をとった、メタ的な視点)になかなか移行できなくて、どこまで観ていてもずっと、作品に巻き込まれているような見方がつづくということだ。
東近美で実物を観ている時も、とても長い時間ずっと絵の前に立っていて、あまりにずっと観ていて近くにいた監視員の人に対してなんとなく恥ずかしいような気になっていた。こんなに見飽きない絵があるのかと思いながら観ていた。一枚の絵を長時間観続けることはよくあるけど、その時は大抵、鑑賞的な視点と解析的な視点との間を行ったり来たりしているのだし、あるいは、観ているうちに次第に視線が惰性になってしまっていると感じて、そこからの巻き返しのきっかけを探っていたりするのだが、セザンヌの「大きな花束」の場合は、ずっと作品に引き込まれ、巻き込まれつづけている感じで、与えられる感覚の鮮度が全然落ちない。
(たとえば、マティスやボナールの絵も、セザンヌと同じくらい長時間見入ってしまうのだけど、マティスやボナールには、感覚がある点に向けて収束してゆくような、感覚の準-安定状態といえる基底面――それは単一の面ではなく複数の基底面の拮抗としてもたらされるものだが――があるように思うし、それを一つの美として「味わう」ことが出来る感じがあるのだけど、セザンヌにはそのような「落ち着くところ」がなくて、拡散し、収束し、また拡散し、それが今度は別の基底面へと収束し、また拡散し、またまた別の面に収束して……、ということになり、「美を味わう」ような余裕がいつまでたっても生まれない。)