●例えば、フローベールカフカの小説を「チーム」で書くということはちょっと考えにくい。それはやはり、非常に特異な存在から生み出されたものだと感じられる。しかし、ドストエフスキーならどうだろうか。ドストエフスキーの何がすごいといって、あんなにたくさんの独自の思想をもつ人たちに、あんなにたくさん自分の意見を喋らせる小説を、一人で全部書いたことがすごい、ということではないか。ならばそれを、ドストエフスキーほどはすごくない人たちが「チーム」で書くということも考えられるのではないか。「チーム」で書くことが可能ならば、現代のドストエフスキーも可能になるのではないか。
例えば、宮崎駿の作品は宮崎駿の作品であり、庵野秀明の作品は庵野秀明の作品であって、それらはやはり天才の仕事で、その製作過程に中途半端に民主的な合議制を採用したら、その面白さの多くが失われてしまうだろう。他人のアイデアを取り入れることはあるだろうが、その最終的な決定は「作家」が専制的に行うのでなければならないだろう。しかし、神山健治版の「攻殻機動隊」はどうだろうか。すくなくともその「物語」のレベルに限って言えば、これは「脚本家チーム」によってこそ可能になった、「脚本家チーム」による作品と言うべきではないだろうか。神山版「攻殻」はチームによる集団制作の可能性をみせてくれている。
何が言いたいのかと言えば、昨日のつづきの話なのだけど、ある特異な世界設定のなかで、複数の、異なる思想をもつ者たちが、それぞれ自律的に、つまり、作品の基調となるような特定の思想によって包摂されることなく、個別の原理で行動することによって展開される、そういった種類の物語は、複数の人たちのチームによって書くことが可能だし、むしろその方が良い物になり得るのではないか、ということだ。
(ここで「チーム」とは、キャラクターデザイン、演出、原画、色指定といった分業を伴うものではなくて、例えば、メンバーすべてが作曲もして、他人の曲や他の楽器のパートの演奏にも口を出すという形のバンド、みたいなイメージだ。)
(たとえば、黒澤明の「隠し砦の三悪人」の脚本は、監督を含めた四人の脚本執筆者が、逃げる側と追う側とに分かれて、その都度、こう逃げたらどう追う? こう追ったらどう逃げる? という風に、相手方に挑戦するようにアイデアを出し合うことでつくられたという話を聞いたことがある。)
ある特定の思想の表現、またはその探求というのではなく、ある特定の状況のなかに、複数の異なる思想があり、それらが抗争状態になるとどうなるのか、ということを表現し、探求することが出来るのは「物語」だけなのではないか。
(当然のことだけど、「作家」がつくる「作品」を否定しているのではまったくない。作品と言うのは基本的には作家がつくるものだと思う。しかし、それとは別に、作品―物語がチームとしてつくられるようなシステムがあっても面白いのではないか、ということ。)