●今期はアニメをあまり観られていない。現時点まで観つづけているのは、「寄生獣」「デンキ街の本屋さん」「SHIROBAKO」「甘城ブリリアントパーク」「サイコパス2」「ガンダム Gのレコンギスタ」くらいだろうか。
サイコパス2」は、第一期よりは確実に面白いと思うのだけど、どうも「思想」が弱いように感じられる。あらゆる物語に思想が必要だとは思わないけど(たとえば「寄生獣」とか「進撃の巨人」とかは思想対決の物語ではなく、ある強烈なイメージの提示によって成り立つ話だろう)、このような、社会派というのとはちょっと違うかもしれないけど、「世界観」系の物語に関しては、登場人物たちの行動の裏付けとして、それなりに説得力のある思想が必要であるように思われる。
例えば、神山版「攻殻機動隊」「ガッチャマン・クラウズ」「まど☆マギ」などは、個々の登場人物たちの行動原理である思想の違いが明確に立っていて、それが物語を展開する基盤になっていたと思う。「攻殻」の敵たちは皆、悪として魅力的な思想をもっていたし、それに対するアラマキにも明確な思想がある。「ガッチャマン…」では、ヒーローとしてのガッチャマンに対する批判としてルイの思想があり、純粋な悪意としてのベルクカッツェに対し、ある種の超人思想をもつ者としてハジメがいる。「まど☆マギ」で、魔法少女たちはそれぞれ異なる思想において魔法少女となり、まどかとほむらの違いは特徴やスペックの違い以上に思想の違いであろう。そしてキューベエと人間との思想の違いもある(虚淵玄は――良くも悪くも、だけど――物語のなかで各陣営の思想的な違いのエッジを立てるのは上手いのかなあと思う)。
まずシビュラシステムの思想があり、それを完全に肯定しているわけではないにしろ、そのシステムの中で行動しようとする常守の思想がある。それに対して「透明人間」である敵側の思想が、たんに反シビュラシステム(シビュラシステムへの反感、システムの盲点、あるいはそこからの解放)というだけでなく、むしろシビュラシステム以上に狂気を孕んだ、危ない、しかし魅力的であるような、スケールの大きな思想(世界像)として立ったものでないと、(航空機事故で死んだすべての死体を切り貼りしてつくられた人間、というアイデアはすごく面白いのだけど、それだけでは)単に犯人と警察の追いかけっこを未来設定でやっているだけみたいな感じになってしまうと思う。つまり敵の側に、たんに反シビュラではない、シビュラと拮抗しつつ自律する「別の思想」が必要だと思う。
(敵側を、「思想」としてではなく、徹底して「システムの盲点」として考えるという方向性もあるとは思うけど、「物語」としてそれをやろうとすると必然的に「決定不能エンド」になり、黒沢清の「CURE」みたいになって、そこを超えられないと思う。)
今後の展開がどうなるのかは分からないけど、今まで、シビュラ・常守・透明人間という三つ巴の抗争だったところに、東金財団という、巨大で社会的な悪=陰謀という要素が新たに付け加えられたので、その東金財団に対する、常守側と透明人間側という二つの異なるアプローチが示されてゆくのだろうと思う。その時に、透明人間側の行動の理由というか原理が、(自分のような怪物をつくってしまった)東金財団への恨みや怒りというだけでは、感情としての説得力はあっても、「世界観」としての説得力がないと思う。透明人間(カムイ)の革命思想がどういう質のものなのか、要するに「カムイは何を目指しているのか」ということの内実が、今後問われるように思う。
感情やイメージによって支えられる物語ではなく、世界観によって支えられる物語においては、登場人物たちの行動原理として「思想」がないと、物語の展開によって世界観の広がりがみえてくるという風になかなかならないので、どうしても弱くなってしまうのではないだろうか。