●『チャッピー』(ニール・ブロムカンプ)をDVDで。汎用人工知能には身体が必要で、しかも人間の赤ん坊と同じである環境で「育てる」必要があるというのは最近よく言われていることで、そのような新しめのトピックを扱った野心的なフィクションなのかと思ったのだけど、全然違った。これはダメな映画だとぼくは思う。これだったら『トランセンデンス』の方がマシではないか。以下ネタバレしています。
(1)今後、もし人工知能が可能かもしれないという感じになった時に、当然顕在化するであろう重大で深刻な問題、推進派と反対派との対立を、このような形――社内の出世競争に絡んだ嫉妬みたいな――で矮小化して描くべきではないと思う。(2)主人公と対立する側の、いわば悪役である人物――反対派のヒュー・ジャックマン――が、少しの魅力もなければ理念もない、ただたんに卑怯で愚かで嫌な奴でしかないという描き方は、物語としてもダメだと思うし、人工知能の開発についての思想信条的な対立ということを考えても、人工知能反対派に対してまったくフェアではないと思う。この作品は他者をバカにしすぎている。(3)クライマックスの作り方があまりに幼稚で、たんに人物を酷い目にあわせることで観客の感情を引きつけようとするやり方で、観ていてとても苛立たされた。今まで徹底してダメだった人――ニンジャ――が急に立派な人として振る舞うというのも嘘くさいと感じた。これは、悪役がたんに愚かな卑怯者でしかないこととも通じている。(4)いきなり「意識のアップロード」が都合よく可能になってしまい(しかも、それが可能になった根拠がまったく示されていない、ディオンやチャッピーは、意識がアップロードされるとオリジナルの意識が消えたのに、何故、ヨーランディのオリジナルの意識はアップロードしても消えなかったのかもわからない、アップロード先がUSBメモリーで意識がまだ「作動」していないから?)、それによって「意識のある人工知能(チャッピー)」に条件として組み込まれていた、五日間という「限定された命」が、物語上でも、思想的にも、意味のないものになってしまっている(物語のなかでの「死」の意味がとても軽くなる)。(5)加えて、人工物が意識をもつとか、意識のアップロード可能性とかいう主題を扱った過去の多くのフィクション作品(例えばディックとか「攻殻」とか)によって練り上げられてきた思考が参照されてもいないし、生かされていない(ロボットのデザインとかは思いっきり参照しているけど)。よって、「意識のアップロード」は、たんに都合よく作品にオチをつけるための方便でしない。
(これをつくった人は明らかに「パトレイバー」とか「攻殻」とか観ているはずなのに、なんでこんな話になってしまうのか。)
この映画は、人を効率よく「泣かせる」道具として「動物」や「子供」をダシにしたストーリーの、動物・子供のところをロボットに置き換えただけのもので、人工知能や心身問題に関する思索的なストーリーなどではなく、「ちょっといい話」を語ろうとしているのだと考えれば、上記の批判に意味はなくなる。勝手に間違った期待を抱いて、それが外れたというだけかもしれない。そもそも人はフィクションに「ちょっといい話」しか求めていないかもしれない。
(例えばタチコマには、たんにマスコットキャラとしてかわいいというだけでない、心身問題として刺さる何かがあるように思うのだが、チャッピーからは――ぼくには、ということでしかないのだが――それが感じられない。でも、そんなことは誰も問題にしていないのかもしれない。)
この映画を観てよかったのは、南アフリカの荒んだ街の風景、特に『ヨハネスブルグの天使たち』に出てきた円柱型の高層ビル(ポンテタワー)の内側が見られたことだ。ニンジャやヨーランディたちの住む廃墟のアジトもよかった。
(追記11月11日)『チャッピー』の何がダメなのかについて、もう少し。
十年前ならともかく、現在では「意識(意思)をもつAI」は絵空事ではなく、もしかしたら出来ちゃうかもしれない技術であり、それに対しては、ホーキングやゲイツなど、技術開発そのものに制限をかけるべきだという慎重派(反対派)も実際に存在し、警告する本も出している。にもかわらず、『チャッピー』の主人公は、何の理性的、倫理的、感情的葛藤もなく、つまり何の考えもなく、あまりに簡単に廃棄ロボットに「意識のあるAI」ソフトをインストールしてしまう。これは普通に考えれば、とんでもないマッドサイエンティストであり、人類に対する最悪のテロリストともなり得る危険な存在であろう。だが、科学者であるはずの主人公がそのことにまったく無自覚だということは、フィクションのなかだとは言え考えられない。しかも、普通に考えれば常識派といえるはずの、自律AI反対派(慎重派)の人物が、どうしようもなく時代遅れで愚かで卑怯な悪役として描かれている。常識として考えれば、主人公こそが悪役であり、それを止めようとする側にこそ正義があるとさえ言える。ある種の皮肉として、それを意図的に逆転させてみせるということは、あり得る。しかしこの映画からはそのような皮肉の調子は(皮肉な調子すら)感じられない。
それともう一つ、倫理的にも技術的にも様々な議論があり得はずの「意識のアップロード」についても、どさくさに紛れて何の考えもなしに行われ、「死ななくて済んでラッキー」くらいの軽い調子で流されている。とにかく、出来るのだからなし崩しにやってしまえばいいというような態度で、これは(十年前ならともかく)現在ではフィクションだとしてもとうてい受け入れられるものではないのではないか。ここに、何の、思想的、倫理的、感情的なドラマ、葛藤、あるいは仮説や思考実験、挑発さえ存在せず、ただ泣かせる「ちょっといい話」に利用されるためだけに「意識のアップロード」がある。しかもラストでは、死んだ人さえ復活できることになってしまっている。
二つの重要かつ深刻な問題が、あまりに雑に扱われている。物語として、作品としては失敗しているとはいえ、『トランセンデンス』では少なくとも、「意識のアップロード」が可能であるということが、どのような危険な帰結をもたらすのかということがちゃんと思考されてはいた。
この映画をつくったニール・ブロムカンプは、このような物語を書くくらいだから、現在のAIをめぐる様々な問題系を理解していないはずはない。知らないはずないにもかかわらず、こんな雑な物語を平気で作ってしまうというのは、どういうことなのだろうか。