2019-07-17

荒俣宏が原作の『帝都大戦』という映画(監督・一瀬隆重 1989)に、「霊的なる国防」というアイデアが出てくる。太平洋戦争の末期、日本が追い詰められてにっちもさっちもいなくなっている時期に、宗教界の一部と軍の一部によって、チャーチルルーズベルトを呪殺することで起死回生を図ろうとする動きが生まれる。ここで面白いのは、たんに呪うだけでなく、その呪いを遠くアメリカやイギリスにまで届けるために、軍が管轄する電波塔から電波に乗せて呪いを飛ばそうとするということだ。

偉い坊主を演じる丹波哲郎須弥壇の前で呪文を唱えているその横に、機械を制御するモニターや操作盤が何台も置かれ、何人ものオペレーターがそれを操作している。たんなる呪術ではなく、このような呪術(神秘主義)と科学との野合(宗教界と軍部との野合)によって生まれるようなものが、オカルト的想像力なのだと思う。

マイナスイオンは「気」のようなものではないし、水素水は「聖水」という概念とは違う。野菜や水に声をかけると美味しくなるというのは「アニミズム(自然主義)」ではない。前者は、常識的なナチュラリズム(一つの自然に多数の文化)の思考がベースにあった上で、それが神秘主義と混交することで生じている。それらは、科学の語彙によって語られた(しかし、科学の文法が破られることで生じる)神秘主義であり、ベースは(つまり分母は)あくまでナチュラリズム(科学)にある。その意味で、オカルトは科学を基底とすることで生まれた産物であり、科学とともにある、いわば合理的神秘主義である。

●ぼく個人としては70年代のオカルトブームの時に少年時代を過ごしたのでオカルト的なものが大好きではあるが、現在、オカルト的な想像力が衰退してしまっているとすれば、それはオカルトが準拠していた科学が、既に古いものになってしまったということなのではないか。現在では、科学の進展、特に、テクノロジーと強く結びついた科学の進展が、それ自体として強い魔法のようなものとして現れ、もはや神秘主義と結びつく余地がなくなってしまったのではないか。オカルト的想像力よりも、科学の示す世界像の突飛さと、テクノロジーが実現する「魔法」の方が圧倒的に強くなっている、と。

(たとえば、GPSによって完全に把捉されてしまった「空」では、飛行物体はただちに確認され、UFOが飛ぶだけの隙間がもはや残されていない、など。)

●オカルト的想像力が準拠するのが前世紀の科学であるとすれば、そこに生じる物語は、前世紀的な政治と世界にかかわる大きな構えをもつ物語となろう(秘密結社が世界を牛耳っている的な陰謀論など)。オカルトは想像力を刺激し、(偽史疑似科学という)フィクションを創出する。一方、神秘主義と結びつく余地なく魔法化したテクノロジーは、想像力を惹起するよりも以前の段階で、無意識のレベルで、直接的に、身体や神経に作用し、それを方向付け、もっと言えば支配する。

(たとえば、スマホというガジェットは、人々の想像的欲望というよりもむしろ、その生活様式や身体所作、注意の移行、リズムなど、神経系に直接作用し、それらに影響を与えるのではないか。)

それはフィクションを介さず、入力に対する直接的な反応としての出力を方向付ける。そうなれば、入力に対する出力を説明する(正当化する)のは、身体であり、拍動であり、気分であり、空気であることになって、理屈や物語ではないことになる。

●それによってで惹起されるのは、オカルト的な想像力によって生まれる物語ではなく、もっとふわっとしたスピリチュアリズムなのではないか。壮大な陰謀論よりも、理屈ではなく心のままに、気持ちに素直に、他人と比べるのではなく自分らしく、人にも自分にも環境にも優しく、といった、「わたし」の身体感覚と、そこに向けられるまなざしこそが前景化するのであり、そのような「ふんわり スピリチュアリズム」は、UFOや超能力や秘密結社の陰謀よりも、相田みつを的な、ミニマルな短文による(非構築的)ヒューマニズムの共感的表現や、江戸しぐさ的な、直接感情に訴える道徳などとの相性がよいだろう。

(それは、ヤンキー的な保守主義、あるいは、意識高い系的な個人主義と相性がよいだろう。)

(それは、オカルトよりもホラーとの相性がよいのかもしれない。)

●フィクションを介さずに、直接的に身体や神経系に作用する「ふんわりスピリチュアリズム」に対しては、(フィクションの次元で作用する)批評は有効ではないだろう。それを「批評」するのだとしたら、物語的なレベル、言説的なレベルのフィクションではなく、身体的なレベル、神経的なレベルでの「フィクション」が必要となるだろう。

●身体的なレベルでのフィクションとはどういうものであるのか。たとえば、わたしの身体は現にこうである。「現にこうである」ということ(つまり「現実」)は非常に強い力をもつ。しかし、わたしの現にこうであるこの身体は、こうではなく別様であった可能性もある。というか、現にこうであるこの身体(現実)は、こうではなく別様であり得た可能性とともにある。別様であり得た可能性があるからこそ(それらではない)「この身体」が現実なのだ。

身体的なフィクションとは、現実としてのこの身体が、別様であり得た可能的身体とともにあることを実感させるようなものであろう。それは、別様なものになるということ(別様なものへの同一化)ではなく、この身体が「これ」として在りつつ、「それ」でも「あり得た」ということを示し、「それ」の方から「これ」を観るような視点を創出するということだと思われる。