2019-05-21

●今週は、「豪の部屋」や「火曜The NIGHT」を観る時間の余裕もない(だが、後からネットで観る)

●『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』の「はしがき」の部分は、本の発売前にこの日記に転載しましたが、68()の刊行記念イベントにあわせて「結び」の部分もここに転載します。

虚構と制作 〜「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念イベント〜

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

●まず「はしがき」の転載。20181221日の日記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181221

●以下は「結び」の転載。

 

結び

 

「何もしないで後悔するより、行動して後悔した方がマシだ」ということがよく言われますが、論理的に考えればこれは間違っていると言えるでしょう。一方に、行動する、行動しないという選択があり、他方に、それによって後悔する、後悔しない、という結果があるならば、その組み合わせは四つになります。①行動して後悔した、②行動したから後悔せずに済んだ、③行動しなかったから後悔した、④行動しなかったから後悔しなかった、です。この四つはすべて可能性としては等しい権利をもちます。

私たちは人生において、①から③を頻繁に経験し、実感するでしょう。好きな彼女に思い切って告白したら、断られたばかりか友人としての関係もぎくしゃくした。彼女にダメモトで押しまくったらつき合うことができた。彼女に思いを伝えることが出来ないまま卒業して別れ別れになってしまった。しかし、④を実感することはできません。行動しないことで後悔しなかったということを実証する(経験する)ことはできないので、それは常に可能性に留まり、ただ想像(考慮)することができるだけです。行動していないのだから、その結果は永遠に確定せず、行動した方がよかったのか、悪かったのか分からないままなのです。

(本当は、も経験できません。「行動しなかったから」後悔したのではなく、「行動しなかったこと」を後悔しているのを、と混同しているのです。)

だから通常の我々の「考え」のなかで④の可能性が考慮から漏れがちです。①から③だけを考慮すれば、行動しなければ必ず後悔し、行動すれば後悔するとしないは五分五分になります。ならば、行動した方がいいという結論になるでしょう。しかし本当は④の可能性もあるので、その判断は必ずしも正しくありません。行動するもしないも五分五分なのです。④は、経験できないことによって見逃されがちですが「現実」なのです。

ただ、④を実感できる唯一の場合は、①で生じる「後悔」においてです。行動して後悔した場合にのみ、行動しなければ後悔しなかったという事実が逆説的に確定し、その後悔を通じて、「行動しなければ後悔しなかったのに…」という反実仮想的な実感を得ます。後悔するという実感を通じてのみ(その裏返してして)、後悔しなかった場合が「存在する」ことを実感できるのです。現実的な可能性としては四つとも等しい確率をもつのに、だけは、反実仮想的、フィクション的にしか経験(実感)できないのです。

(実は、の「行動したから後悔しなかった」の裏返しとしてしか、の「行動しなかったから後悔した」も実感できないのですが、前述したように、人はそれを「行動しなかったことを後悔する」ことの実感で代替します。)

逆に言えば、忘れられがちな④の可能性を現実的な実感のなかに織り込んでいくのがフィクションの大きな意味の一つではないでしょうか。

 

わたしが生まれなかったこの世界を、わたしが考えることができるのは、既にわたしが生まれている場合に限ります。行動して後悔することを通じてしか、行動しなければ後悔しなかったと知ることができないことと、このことは似ていないでしょうか。

わたしが既に存在してしまっているから、その否定として、わたしの存在しなかった世界が想像できる。人間が存在してしまっているからこそ、その否定として、人間の存在しなかった世界を考えることが出来る。現にこうである経験可能な世界があるから、その裏返してして、経験不可能な別様な世界を考え得る。

これらについて考えることは現実逃避ではありません。それは現実的に充分にあり得た可能性一つだからです。わたしたちはそれを、別様でありえたもう一つの現在(現実)として考えるのです。そして、現にそうではない(わたしが存在してしまっている)「現実」を実感することを通じて(その裏返しとして)、そうであったかもしれないもう一つ別の、同等の現実として、それを実感するのです。

わたしがいない世界を想像しているのが「わたし」でしかないとすれば、そこに既にわたしが含まれてしまっているのではなかという矛盾はたしかにあります。④の「後悔しない」実感が、①の実感(後悔)の裏返しとしてしか感じられないのと同様に、わたしという実感の「裏返し」を通じてしか、わたしの生まれなかった世界を想像することはできないでしょう。しかし、かろうじて裏返しによってその別様な世界に通じているとすれば、この「裏返し」のやり方をいろいろ工夫してみることはできそうです。

「因果(現実)の外に零れ落ちた出来事」や「そこにいるわたし」、「透明な存在の積極的な肯定」など、この本に書かれていることは、現にこうである(経験可能な)現実の「裏返し」のさせかたのざまざまな工夫であり、その工夫によってあらわれるさまざまな形の、「別様でありえた現実と同等の世界」のあり様であると言えると思います。

繰り返しになりますが、それは、見えない(経験できない)としても、経験可能な、現にこうである現実と同等の権利で実在しているはずのものです。そのような経験不可能な実在の気配を、経験可能な現実のうちへと織り込んでいくものが、フィクションと言えるのではないでしょうか。