●おお、芥川賞、山下さんだ。おめでとうございます。
受賞作ではないですが、去年「文學界」11月号に書いた『壁抜けの谷』の書評(「わたし」と「あなた」と「ここ」と「そこ」)をnoteにアップしました。受賞作『しんせかい』の書評は、今出ている「新潮」2月号に載っています。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/nb09857a6ce91
●先週いろいろ忙しくて中断していた『有限性の後で』の第三章をようやく読み終わった。メイヤスーは本当にねちねちと論理を重ねる(この過程が本当にビリビリ痺れる)ことで、即自的なもの(もの自体)は、まちがいなく存在し、そしてそれは「非理由律」と「無矛盾律」に従っているという結論に辿り着く。あらゆる存在者に理由はない(必然的存在者は存在しない)が、そんな何でもありの即自的世界も矛盾は許容しない、と。矛盾を許容しないからこそ、数学によって即自を思考することができる、と。それを証明することでようやく、偶然(別様である可能性)を確保できる。
(たとえば、量子論的な重ね合わせは、世界が矛盾を許容しているようにもみえる。しかし、量子論は数学的には何の矛盾もないのだから、それは即自における矛盾ではなく、ただ〈私たちにとって〉の矛盾であるだけだ、ということになる。)
すべてが予め決まっているという単線的決定論でもなく、すべての可能性が存在するという多世界解釈でもなく、非理由律と無矛盾律に従う即自という世界像でのみ、偶然(別様である可能性)が生じる。すべてが決定しているならそれ以外ありえないし、すべての可能性が既にあるのなら、他のものに変わり様がない。そして、科学的な世界の描像は、究極的にはそのどちらかに収束するしかない。そこで哲学が、理屈に理屈をぐちぐちと重ねて、(科学を受け入れた上で)なんとか「可能性」の可能性のある世界像をひねりだす。この思弁が何の役に立つのかといえば、おそらく何の役にも立たない(この本では社会は良くならない)。でも、すごく勇気づけられる。
(思弁的実在論がこの本からはじまっているというのも納得できるような、何かを必死で切り開いていこうとする力に満ちた本だと思う。まだ四章と五章が残っているけど。)
●追記。お知らせ。明日、1月20日の東京新聞夕刊に、東京国立近代美術館でやっている「endless山田正亮の絵画」についての美術評が掲載されます。