●まだ、三分の一くらいしか読めてないけど、ハーマン『四方対象』のこの読みやすさは何なのだろうか。メイヤスー『有限性の後で』は、ちょっとドストエフスキーの小説みたいで、いろんな立場の哲学者たちが喧々諤々とハードな議論を戦わせつつ、最後に思弁的哲学者が勝つ、みたいな展開だったけど、ハーマン『四方対象』は、様々な哲学者から萌え要素を取り出してきて、それらを組み合わせてハーマン・オリジナル萌えキャラをつくる、みたいな感じに読める。フッサールの描く「眼」はとてもいいんだけど、まつ毛のところをこういう風に変えてやると断然かわいくなるよね」とか、「ハイデガーの描く制服はすごくイケてるんだけど、スカートをもうちょい短くして、襞の感じをふわっとさせてやるだけでエロ度がぐっと増すよね」、で、この二つを合わせてみると、ね、すごくいい感じになるでしょ、とか言いながら、いつの間にか自分のオリジナルキャラにしてしまうみたいな感じ。
最初の三分の一だけ読んで、ハーマンとメイヤスーに共通していると感じたのは、同一性の哲学(一者の哲学)と多様性の哲学(多元論の哲学)とを---そしてそのどちらかに転ぶしかない前個体的一元論の哲学も---共に批判することと、それらを批判したといわれている差異の哲学をもまた批判するというところなのかなあ、と。同一性の哲学は、「何か一つのものが変化するという理由を説明できない」、多様性の哲学は、「多様なもの同士の関係を結びつけて統合する手段を説明できない」。だから、この両者を同時に満たすことができなければならない。そして、自分自身が自分自身に対して常に変化していくという言い方でそれを実現しようとした「差異の哲学」は、自分自身に対する自分の差異と、わたしとあなたとの間を隔てる差異(あるいは、この林檎とあの蜜柑との間の差異)という、二つの「差異」の違いを説明できない。そこで、「変化(一の多)」と「統合(多の一)」との両者だけでなく、わたしがわたしに対して変化すること(この林檎がこの林檎のままで別様なものになること)と、わたしとあなたとが違うこと(この林檎とあの蜜柑とが隔てられてあるものであること)との「違い」をも説明できるような理論をつくる必要があるのだ、という感じが共通しているのだろうか。
(この林檎が自分---この林檎---自身に対して別様であり得るという差異と、この林檎とあの蜜柑との間を隔てる差異という、この二つの差異を、分けないで混同してしまった方が面白い、という見方もあり得るかもしれないなあとは思うが。それだと輪廻転生になるのか。)
●使っているガラケーとマイクロSDカードとの接続部分が壊れてしまったみたいで、写真が撮れない、というか撮っても保存できない…。パソコンと繋ぐと画像は観られるから、マイクロSDカードの方が壊れたわけではないみたいだが。
●最後に撮った写真、タブロー(部分・制作中)。