●グレアム・ハーマン「オブジェクトへの道」(「現代思想」2018年1月号)は、『四方対象』や「代替因果について」で書かれていることの要約みたいな内容なのだなあと思って読んでいると、最後のところに、いわゆる「虚構的なもの」の存在について、とてもおもしろいことが書かれていて、やはりハーマンはおもしろい、と思った。
たとえば、ラトゥールやブライアントにおいて「実在すること」とは、他の何かに「影響をおよぼすこと」であり、つまり「実在性」と「影響力」とは互いに交換可能な語(同義)である、と。しかし、ハーマンは、ただ「実在する」だけで他の何ものにも影響を及ぼさない(世界を素通りする)「眠れるオブジェクト」の実在を認める。そして逆に、実在的ではないにもかかわらず、なにかしらの影響を他に与える事物がある、ということも主張する。
●ハーマンはラトゥールなどの立場を「フラットな存在論」と呼ぶ。
《たとえば中国政府は、男子生徒がノートに描いた棒人間よりもおおくの事物に働きかけるのであって、すべてのものがひとしい力を有するわけではない。とはいえ、その棒人間でさえも、ぽっかりと空いた非存在的な穴などではなく、かすかではあれなんらかの情緒的反響を少年の心にもたらすのだから、すべてのものは等しく実在的である。(…)初期ラトゥールにとって、すべてのアクターはひとしくアクターなのである。》
《棒人間もポパイもラブクラフトの怪物もみな、だれかの気分に対してであれ、映画館や書店の売り上げに対してであれ、なんらかのものに多少なりとも影響をおよぼすだろう。それゆえに、あらゆるものがひとしく実在的となるのだ。》
●しかし、ハーマンはこのような「インフレ状態におちいった宇宙」を認めることになるフラットな存在論を、「実在的オブジェクト」と「感覚的オブジェクト」との違いを設けることによって避けることができる。他のなにかに影響を与える事物はたんに「感覚的オブジェクト」であり、それがそのまま「実在的オブジェクト」と結びつく(実在の根拠になる)とは限らない、ということになる。
しかし、だからといって、実在的イメージと偽のイメージとを峻別しようとする(「実在警察」であるような)思弁的実在論のエピステモロジー派(ブラシエ、メイヤスー)とは違うともいう。
《ここでいうエピステモロジーとは、軽信的なキリスト教徒や錬金術師、ラトゥール主義者たちの誤りを指摘して、世界を科学にとって安全なものにする方法を意味している。(…)エピステモロジー派の暗く曇った目からすれば、あるイメージは実在的であり、またあるイメージは偽となる。これに対してわたしは、たんにすべてのイメージが偽であると考える》。
《思弁的実在論のエピステモロジー派は、たとえそれを「科学的」イメージと呼ぶことに同意したとしても、じっさいにはイメージ以外のなにものでもないような無数のオブジェクトに対して実在性を認めるのだが、これに対してわたしの立場だけが、感覚的なものと実在的なものを混同することが決してないからである。》
《そもそもわたしたちのイメージが、なにかと「一致する」ことなどないのだ。暗闇へと退隠する実在的オブジェクトに対して、なんらかの同型的な類似性をもつことはできない。すべては虚構である。あるいは、ラトゥールのことばをもちいれば、すべては翻訳である。》
●しかし、「すべては翻訳」であるからといって、これは「相対主義」ではない。翻訳には、よい翻訳もわるい翻訳もあるからだ、と。そして「翻訳のよしあし」には、実在→翻訳という方向だけではなく、翻訳→実在という方向の、遡行的なはたらきかけの可能性という問題があるのだ、と。わるい翻訳においては、遡行的はたらきかけの可能性が低くなる。この、「遡行的はたらきかけ」の問題(この点で「科学」の高い有用性は否定されないだろう)があるので、あらゆる感覚的オブジェクトが、そのまま実在的オブジェクトとのつながりを持つわけではないということもいえるのだ、と。
《それが相対主義ではないのは、じっさいに翻訳のよしあしが存在するからだ。また、それが徹底した実在論であるのは、実在的オブジェクトを真剣にとらえ、それをどんな概念的モデルによっても置き換えることのできないものとみなすからである》。
《すべての実在的オブジェクトが翻訳へと変換されうるのだとして、問題は、どのような場合において、翻訳は実在に対して遡行的に働きかけることができるのか、ということである。》
●そして、これが一番おもしろいのだが、虚構的なもの(感覚的オブジェクトではあっても、実在的オブジェクトとのつながりのない事物)も、そのイメージから退隠する「実在的性質」はもっているのだ、とする点だ。これは、感覚的オブジェクトは必然的に、感覚的性質と同時に実在的性質をもつ、というところから帰結される。つまり、虚構的存在は、実在はしないが実在的なもの(汲み尽くせない何かをもつもの)ではある、ということになる。これはフィクション論としても重要だし、とてもおもしろい。
《わたしたちがなにか適当な怪物を考えだしたとしても、それだけではただちに実在的オブジェクトを生みだしたことにはならない。ところが、実在的性質であれば、そうするだけでただちに生みだしたことになるのだ。》
《わたしたちは[ユニコーンやドラゴンといった]精神のうちの虚構的存在にかんして、なにがそれらの決定的な特徴であり、「形相」をなしているのかを、けっして正確に述べることはできない。そうした特徴は直接的なアクセスから退隠してしまい、どんなに分析や解釈をくわえたとしても、それを超え出てしまう。まさにこの事実こそが、こうした特徴を---それが非実在的事物(たんなる感覚的オブジェクト)に属するのだとしても---実在的にするのである。》