●『ソウル・ハンターズ』(レーン・ウィラースレフ)によって描きだされるユカギールの人々もまた、ヴィヴェイロス・デ・カストロの言う多自然主義(多くの自然に一つの文化、多くの身体に一つの精神)を受け入れているといえるだろう。
《すべての存在がその環境の中で共有する内的本質であるアイビ(霊魂)によって潜在的な人格であると考えられている。そして、アイビはそれらに同じような合理的な能力を与える。ある存在が実際に人格としてあらわれるかそうでないかは、それが位置づけられ、経験される文脈による。》
●ユカギールの狩猟は、獲物を模倣することによって、獲物を性的に誘惑し、獲物が性的に興奮することで「自らを捧げる」ように仕向けるのだとされる。これは、動物が自らを人間の食料として自己犠牲的に身を捧げるということとは違う。獲物は、狩猟者による模像に魅了されて、そうせざるをえなくなっておびき出される。つまり、狩猟者(誘惑者)の誘惑の成否は、誘惑される者(獲物)の側のイメージする力(イメージを受け取る力)に依存している。狩猟者は誘惑者であるから、たんに獲物の姿を真似るだけではない。誘惑者は、獲物の「自己愛」に働きかけるような模像を演じる必要がある。誘惑される者(獲物)は、狩猟者のつくる模像のなかに、自身にかかわる理想的なイメージを見出し、それに魅了されるのだという。獲物が、狩猟者の模像のなかに見出すのは《自分自身をいかに経験するかに関する、まったくそのままのイメージ》ではなく、《彼女がどのようなものになることができるかに関する、理想的な表象もしくは幻想的なイメージ》である、と。つまり、誘惑は本質的に自己愛的であり、誘惑者は誘惑される者の自己愛に働きかけることとなる。狩猟者は、《獲物との共感関係を確立することで操作された虚構のなかで動物の現実の知覚を変容させる》。ここでは、誘惑者の側には偽りの愛が、誘惑される者の側には虚栄があるだけ、ということになる。
とはいえ、狩猟者が獲物にとって「性的に魅力があり」、かつ「友好的で無害」だと感じられるように振る舞わなければならないという時、その狩猟者は、獲物の行動と感性に響き合うように振る舞い、獲物との間に「共感関係」を築く必要がある。このような「模倣的な共感」には、(1)自分自身を他者の領域に入り込ませる能力と、(2)自らの想像力のなかに他者のパースペクティブを再生産する能力が必要となる。私には他者(他種)の見方を直接的には経験することができないからこそ、他者(他種)の身体的なふるまいや感覚、共感的な感性を模倣することで、他者のパースペクティブを想定する必要がある。
《狩猟者がエルクをある人格として見るように強いられるのは、エルクが動物のまねをする彼のまねをはじめるからである。それゆえ、動物の人格性とは、狩猟者自身の人格意識と、身体の反映として、すなわち彼の分身として行動する獲物に関する彼の経験が、同時にやってくることの結果なのである。》
そして、このような「模倣的な共感」を通じて、《私が他者と共有することになる経験が共有されると想像される》のだが、《そうした経験は架空のものではない》と、ウィラースレフは書いている。《そうした経験は、純粋なファンタジーではなく、私の生きられた身体の経験の接合を通じて、「実在」の感覚を獲得する》のだ、と。
《このことは、私のフィールドワークの経験によって示されるに違いない。調査期間中、狩猟に出かけたときにはいつでも苦労して注意深く獲物の足跡や他のしるしを学び、夜見る夢の中ではときとして霊的存在との性的出会いがあった。私がユカギールの狩猟者のパースペクティブを身につけることはたんなる表象ではなく、彼らの生活世界の私の身体的経験に物質的に根差している。》
ネーゲルは、有名な論文「コウモリであることはどのようなことか?」のなかで示している。「目が見えない人たちは、彼らの近くにあるものを、クリック音あるいはサトウキビで軽く叩く音を用いて、ある型のソナーによって察知することができる。たぶん、その人が、それがどのようなものか知っているならば、拡張によって、より洗練されたコウモリのソナーを持つことがどのようなものであるかを大雑把に想像することができる」。私は、ユカギールの狩猟者に関して同様の議論ができると考えている。彼らは、獲物のイメージのなかに形状変換するために、肉体的な脱人間化のプロセスを経験する。確かに、彼らの動物の視点に関する理解は完全なものとはなりえない(実際、彼らはそれを完全にするつもりはない)。しかし、自身の身体的経験を用いてある動物の経験の、その身になったような理解に達するとき、彼らは少なくともおおよそのところ、その動物であるとはどのようなことかについての考えを構成できるというのは、ありうることだと私は考えている。私は、エルクのような高等哺乳類が自覚のある精神状態を持っていることを当然であると考えている。》
このようなアニミズム的な「模倣的な共感」が、決して隠喩的(擬人化的)なものではなく、他者(他種)に対して実践的に有効な技法であり、故に「実在」にかかわるものなのだということをウィラースレフは何度も強調している。ユカギールの言葉には「自然」を意味する語がないという。それは、社会(文化)と自然、人間と非人間、比喩的な現実とリテラルな現実というカテゴリーの二分法を拒絶することである、と。《実際の現実と比喩の現実という二つの現実があるのではない。人間と非人間の両方からなる人格とそれらの関係によって成り立つ、ただひとつの現実があるのみだ。》
●意外にも、このような事柄はハーマンによる「実在」にかんする主張と親和性が高いのではないか。「エルク」という対象の実在は「私」に対して脱去しているが(私は、エルクそのもののパースペクティブを得ることは出来ないが)、しかし、「私」は感覚的エルクに対するミメーシスの行為(共感的な脱人間化のプロセス)を通じて、「エルクではなく、エルクでないわけでもない」ものとなることによって「エルク」に対して「虚構的」に働きかけることができる。ハーマンによれば、虚構的なもの(感覚的対象ではあっても、実在的対象とのつながりのない事物)も、そのイメージから脱去する「実在的性質」はもっていることになる。つまり、このようなミメーシス(誘惑・代替因果)としての私の「虚構的」働きかけが実在性(汲み尽くせなさ)を獲得し、実在的エルクにも間接的な影響を与え、エルクが反応を返す(「エルクを真似る私」をエルクが真似る)としたら、その虚構的翻訳は「よい翻訳」であったことになる。
ここに、私-エルクの間に「虚構」を介した関係が成立し、エルクの側から新たな虚構的存在「人間ではなく、人間でないわけでもない」が私に向けて返されてくる。
この、「私」と「エルク」との虚構を介した新たな関係=対象は、これを包摂する第三項として「自らの鏡像=分身をエルクという対象のなかに見ている私」という志向性を生み出し、かつ、その関係=対象そのものは志向性から脱去する、と。