●『ソナチネ』(北野武)をDVDで観た。2008年に『アキレスと亀』を観て「許し難い」と感じてしまい、それ以来ずっと北野武の映画を観ていないから、北野映画を観るのは十年ぶりくらいだし、『ソナチネ』はもっと観ていない。
改めてすごいと思った(これ、25年前の映画なんだなあ、と)。いや、この作品だけが独立してすごいというより、北野武の映画は、一本目の『その男、凶暴につき』から四本目の『ソナチネ』までは、すべてが事件のような驚きだった。そして、これらの映画の映画としてのすごさは、「映画」からくるすごさとは別のすごさだということが事件だったのだと思う。
改めて『ソナチネ』を観て思ったのだけど、この映画の「つくり」の発想の根本は映画にあるのではなく、もっと別のもの(おそらく、演芸とか落語とか)から来ているのではないか。しかし、この映画は、ビートたけしの芸人や漫才師としての芸風と似ている感じはあまりない。つまり北野武は、演芸からの影響(演芸に関する教養、演芸的な技法)を、演芸それ自身に対してよりも、映画というメディアにおいて上手く活用した、ということなのではないか。
この映画は93年に公開されているのだけど、九十年代に日本でつくられたすぐれた映画の多くの背後に、北野武の映画の存在があるように思われる。たとえば、黒沢清Vシネマ量産時代に入るのは94年からだけど、八十年代の黒沢清から九十年代の黒沢清への変化(飛躍と言ってもいいと思う)の背景には、北野武の映画の影(というか、インパクト)が強くあるように感じられる。『復讐 消えない傷痕』や『蜘蛛の瞳』は、北野武(と、キアロスタミ)の映画なしにはあり得なかったのではないかと改めて感じた。
(映画としてのソリッドさという点では黒沢清なのだが、オリジナリティという点では北野武なのではないか、と。)
(黒沢清は、ヤクザのことは理解できないからヤクザ映画はつくれないと発言していたという記憶があるが、北野武の映画は、ヤクザのことは理解できない---共感できない---からこそ成立しているという感じがある。『ソナチネ』の主人公の心理や行動原理など一ミリも分からないのだが、それでも胸に深く刺さるものがある。)
(黒沢清のたとえば『CURE』などでは、人間と非人間があり、あるいは人間から非人間への不可逆の変質があるのだけど、『ソナチネ』では、あらかじめ非人間であり同時に人間である---死への恐怖による憂鬱をもつ---者がいる、という違いがあるのか。)
(『ソナチネ』は分かりやすい三部構成---時間配分もほぼぴったり三十分ずつ---になっているし、話の展開としては高倉健が出ているようなヤクザ映画とかわらない---仁義を欠いた理不尽な裏切りを受けたものがスジを通すために孤独に自滅的な復讐にでる---話なので、「ガワ」としては紋切り型を採用しているのだけど、その中味をまるっきり変えてしまっている。)
(『ソナチネ』には、「たけしが本当に死んじゃいそう」という気配が、他の北野作品と比べても極めて濃くでているという特異性がある。)