●『散歩する侵略者』と『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(黒沢清)をDVDで観た。
これはあくまで第一印象にすぎないのだけど、『散歩する侵略者』は、黒沢清の映画を観ているという感じがあまりしなかった。いや、黒沢清でしかあり得ないという演出や画面で満ちているのだけど、一本の映画として、とどこおりなく滑らかに観られる普通の娯楽映画という感触で、「え、黒沢清って、これでいい人なの?」という拍子抜けした感じになった。別の言い方をすれば、時代が変わった、映画というもののありようそのものが変わった、ということを受け入れて、黒沢清が自ら背負っていたものから解放された、ということなのかもしれないとも感じた。もう90年代の黒沢清とは違うんだ、と。
(黒沢清はもともと、どんな企画でも受け入れる「職人的な演出家」でありたい人で、ぼくが、90年代の黒沢清に対する思い入れが強すぎる、ということかもしれないが。)
一方、『予兆 散歩する侵略者 劇場版』は、そのような『散歩する侵略者』に対して、脚本の高橋洋が、「黒沢さん、本当に、その物語、その展開、その結末に、納得してるんですか?、それでOKなんですか?」と疑問を投げかけているような展開になっていると感じた(『予兆』の展開そのものが『散歩する侵略者』批判になっていると思う)。まあ、実際は共同脚本だし、二本がほぼ同時につくられているのだから、たんに本編に対する「裏」をやっているということでしかないのかもしれないけど。ぼくが、『散歩する侵略者』の物語や展開に根本的に納得できない(受け入れられない)ところが多々あって---そもそも、もともとある「お話」が面白くない---黒沢清はこれを受け入れてしまうのか、という、なんとももやもやした気持ちで観たのに対して、『予兆』の方はすごく納得できた、ということだ。というか、『予兆』を観ながら、「そうですよね、それですよね、この題材をやるなら、やはりそういかないとおかしいですよね」と、ずっと思っていた。
(『予兆』の方が、演出が90年代の黒沢調に近いとか、そういう問題ではない。)
(たとえば、『散歩する侵略者』では、「概念」を奪われた人が具体的にどのようになるのかはほぼ描かれていないけど、『予兆』では、「家族」という概念を奪われた人が同居する父親を幽霊のように感じる、という具体例がちゃんと示されているし、概念を集めるという行為にかんして「熱帯の昆虫を集めるようなもの」だという説明もちゃんとあるので、そういう面での説得力が違う。『予兆』では宇宙人と「ガイド」との関係も明確だ。逆に言えば『散歩する侵略者』では、長谷川博己の立ち位置や態度が明確ではない。あるいは、『散歩する侵略者』では宇宙人に対して「国」がどのタイミングでどの程度介入してくるのかにかんしても説得力がないと思う。笹野軍団みたいな、小規模で半端な介入であるはずがないと思う。日本だけの問題ではないのだし、普通に考えて「国」ってもっと怖いものだと思うし、長谷川博己も、ヤバいネタを扱うジャーナリストなのだから「国」に対する警戒ももっとちゃんとしているはずだと思う。これは物語の水準の話だけではなく、『散歩する侵略者』の「娯楽映画」としての規模の中途半端さ---お金のかけかたが中途半端---とも関係があるので、仕方の無い面もあるのかもしれないけど。その点、『予兆』の方ははじめから低予算として設計されているから、中途半端な感じはない。)
(とはいえ、『散歩する侵略者』も『予兆 散歩する侵略者 劇場版』も、俳優はすばらしかった。特に若い俳優がみんなすばらしいことに驚かされる。これは、黒沢清の演出による力も大きいのだと思うけど、『散歩する侵略者』の二人の若い宇宙人は特にすばらしかったし、長澤まさみって、昭和の映画女優みたいに本当に「いい顔」なんだなあとも思ったりもした。ただ、『予兆』の大杉漣の演出はちょっと上手くいっていないかなあ…、と。)
(長澤まさみ杉村春子をやらせるのは、ちょっと面白かった。)