●お知らせ。明日の東京新聞、3月18日づけ夕刊に、東京ステーションギャラリーでやっているモランディ展(終わりなき変奏)についての美術評が掲載されます。
●目黒シネマまで、黒沢清監督二本立て(『岸辺の旅』『Seventh Code』)を観に行った。どちらもすごく面白かった。『トウキョウソナタ』と『リアル』で、黒沢清への関心がやや薄れてしまって、この二本を今まで観ないままでいたのだけど、この二本にはそれぞれ違う「突き抜けた」感があって、やはり黒沢清はすごいと改めて思うことができた。
『Seventh Code』は、前田敦子という存在によって、黒沢清に今までとはちがった別の引き出しが開かれた感じ。今までの黒沢清の映画に、こういう感じのヒロインは一人もいなかったはず。それは、前田敦子がこういう感じだから、こうするしかなかった、みたいにみえた。前田敦子は七十年代っぽい、そして、あまり清潔ではない小動物っぽい(野生の鼠みたいな)。小動物が、どたどたと走り回り、泥だらけになり、傷だらけになる。その感じがこの映画の基調をつくり、リアリティを支えている。この映画は、そもそも無茶な設定と、無茶などんでん返しで出来ているが、その無茶が通るのは、ヒロインが前田敦子だからだろう。黒沢清は、女優を過剰に美しく撮ってしまう監督だと思うのだけど、この映画に関しては、前田敦子を美しく撮ろうとは少しも思っていない感じ。基本的に、ジャンル映画を下敷きにすることで成立する作品だと思うけど、その「下敷きにする仕方」が、90年代の黒沢作品とは大きく異なっている。とにかく観ていて楽しかった。
『岸辺の旅』は、まさに黒沢清の真骨頂とも言える映画だけど、それだけではなく、今までだったら決してそこまではやらなかったであろう「ベタな感じ」をあえてやっているところがあるのが興味深い。
前半は、その「ベタ」なところまで含めて、完璧に、打ちひしがれるように素晴らしいと思った。深津絵里浅野忠信がバスのなかでケンカをして、深津絵里が一人で部屋に戻って、蒼井優に会いに行き、帰って白玉をつくると浅野忠信が再び戻ってくる、この場面で終っていたら、ぼくにとっては完璧な傑作だった。いやもう、ドライヤーの『奇跡』並みの作品だろう、と。
ただその後の、夫婦が巡る三つ目の場所のエピソードになると、あえてやっている「ベタ」な感じが、ぼくにとっては、だんだん「そういっちゃうのか、それは違うんじゃないのか」と感じてしまうところがいくつか現われはじめた。例えば、死の世界に非常に近い土地のイメージを、里山に棚田のような風景にしてしまうのはどうなのか、とか、光子や宇宙についての講義をする場面は「説明しちゃってる感」が強すぎないだろうか、とか。いや、後半もかわらず演出はキレキレで、ピンと張りつめたテンションは持続しているし、十分過ぎるくらいにすごいのだけど、前半がすご過ぎたので、ちょっと「うーん」という感じになる。
とはいえ、この映画はおそらくはじめて黒沢清が「ベタ」をやり切ったという意味で、とても貴重な作品で、そこがとても面白かった。最後にちゃんと夫婦のセックスも見せるし、誰もが納得するように終わる。「ベタ」なことを踏襲しつつ、それが予定調和とは感じられないくらいに、それぞれの場面の力が漲っている。とにかく黒沢清は、一度はこれをやり切った。で、これからどうなるのか、ということにがぜん興味が湧いてきた。
ぼくの感じ方では、ここ十年くらいの黒沢清は、演出のクオリティがどんどんパワーアップしているにもかかわらず、作品としては停滞しているように見えていた。でも、この二本はそれを突き破っているように思った。
(追記。『岸辺の旅』で浅野忠信深津絵里のトラウマとも言える。『リアル』で、トラウマ解決を嫌うあまりに首長竜を実体化したように、『岸辺の旅』ではトラウマを、眼に見えて触れることも話すことも出来る「人」として実体化させたと言える。竜ではなく人だからこそ、『岸辺の旅』ではトラウマ話をトラウマ解決ではない形でやり切ることができた。『贖罪』もまた、過去に囚われる人々の話で、黒沢清は、トラウマ解決を嫌いながらトラウマ話ばかりを撮っているようにさえ見える。おそらく黒沢清は、過去の回帰=幽霊を、トラウマ=心理ではなく「物理」の側になんとかもっていきたいのではないか。それが、唐突であるようにも説明的であるようにもみえてしまう『岸辺の旅』の浅野忠信による不自然な「科学(宇宙論)講義」の理由かもしれない。でもそれはやはり、『リアル』の竜と同じくらいに強引だと思う。)
(追記2。『岸辺の旅』の浅野忠信相対性理論の話をする。相対性理論によると、光速で運動するものは質量が無限大になってしまう。しかし光子の質量が無限大ということは考えられないから、光速で運動する光子は質量ゼロの点だと考えられる。しかし、光は粒であると同時に波でもある。波であるからには幅がある。幅がゼロの波など考えられない。つまり、質量がゼロである光は、波の幅はゼロではない。ゼロであっても無ではない。この宇宙は無数の無ではないゼロで溢れている。このことが、比喩的に、死んで存在しないはずの浅野忠信が実在していることの---心理に依らない---根拠のようなもの---根拠を匂わす比喩のようなもの---になる。これを「説明的だ」と感じてしまうのは、この比喩的根拠が、この物語の根底にあるリアリティ---死者がふっと戻ってきてしまう---と繋がっているようには感じられないからだと思う。)